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23 最悪な日〈1〉

 真っ白な世界に夕はひとりで立っていた。  否、隣には女の子も立っている。夢の中で、自分はその子の事が好きで二人は恋人同士だった。  心地良い。  ぱちぱちと光の粒が弾ける。楽しくて、嬉しくて、幸せだった。  でも自分はその子の顔を知らない。  顔を見たくて、視線を向ける。けれど霞んでいてその顔はよく見えない。  顔を見せてよ。  手を伸ばして、触れる。すっきりとした熱い首。襟足の短い硬めの髪は少し色素が薄い。  女性にしてはしっかりした首だな――そう思っていると、名前を呼ばれた。  ――夕。  聞き覚えのある声に首を捻る。果たして誰の声だったか。  ――夕君。  その唇が動いた次の瞬間、場面が切り替わった。 「夕……っ」  散らばる赤みがかった髪の毛。  涙を目尻に浮かべ、紅潮する頬。  匂い立つ色気に全神経がざわめいた。  だけど。  何故、押し倒し抱こうとしている相手が利人なのか。  ピピピピ、と甲高い機械音に意識を引き上げらればちっと目を見開かせた。  アラームを切って暫く呆然とする。 「欲求不満……?」  眉を顰め、そして身体の変化に気づく。  それは朝の生理現象としてよくある事だ。やましい夢を見る見ないに関係なくそれは起きる。  けれど如何せん、タイミングが悪い。夕は深く深く溜息を吐いた。  これは夢のせいじゃない。断じて違う。  そう言い聞かせて、隆起した下腹部から目を逸らすように目を瞑って嘆いた。    ***  後味の悪い思いを抱えたままいつものように爽やかな笑みを振り撒いて登校した昼、夕は人気のない階段を登っていた。  行く手を阻むロープを潜り抜け、階段を登り切ると屋上へ続く扉には立ち入り禁止の張り紙がある。鍵の壊れているその扉のノブに手を掛けようとした夕は、人の気配にぴたりと手を止めた。  その屋上は端の方に行きさえしなければ外から人目に触れる事のない穴場だ。一人になりたい時にたまに訪れるのだが、どうやら今日は先を越されたらしい。  ち、と軽く舌打ちをする。自分の他にもここを使っている人間がいたのかと思いながら踵を返し掛けたその時、ばんと勢い良く扉が開いた。  制服の乱れた女子生徒が夕に驚いて短く悲鳴を上げる。  その顔を夕は見た事があった。別のクラスだが、以前同じクラスになった事のある同学年の生徒だ。彼女は乱れた胸元を隠すと逃げるようにばたばたと降りていく。  開け放たれたままの扉の外から聞こえる声の主には心当たりがあった。段差を踏み越え視線を彷徨わせると、すぐ傍にいた少年に視線を留める。 「随分とリラックスしてるんだな、鴉取」 「白岡か」  スマートフォンを持った藍は、下半身を寛がせたまま気だるげに扉の横に寄り掛かっている。丁度影になっている為少し暗いが、藍の左頬が赤く腫れているのはすぐに見て取れた。 「さっきの、彼女?」 「別に。エッチはするけど付き合ってはいない。好きじゃなくても良いって言ったのは向こうなのに彼女気取りで困るよ」 「……その頬は?」 「ヤってる最中に紅から電話来たから出たら殴られた。あの女、勝手に紅からの電話切りやがって一体何様のつもりなんだか」  藍はそう言いながらスラックスのチャックを引き上げ唇を尖らせる。 「そりゃ怒るだろうな。それはお前が悪いけど」  夕はそこまで淡々と紡ぐと、ふっと鼻で嗤う。 「俺もああいう女は嫌いだ」 「だろうな」  はは、と藍は肩を揺らす。白岡すごくたち悪そうだもんな、と綺麗な形をした唇が動く。やはり見透かされていたらしい。 「白岡でも良いかなあ。なあ、白岡って男はいける口?」  は、と怪訝そうに顔を顰める。藍は頭を上げると、夕を見上げてただの雑談のように言葉を続けた。 「中途半端に終わったから物足りないんだよね。白岡、俺とヤんない? 俺がネコで良いし」  なあ、とぐいと腕を引かれる。 「触るな!」  ぞくりと悪寒が走りその手を振り払った。藍は少し驚いたように目を丸くしている。 「お前がどこで誰とサカろうが勝手だが、俺は男とする趣味はない。気色悪い、反吐が出る」 「うわ、強烈。普段の白岡からは想像出来ない台詞だ。それなら仕方ないけど……。白岡、あんたっていつも良い子してて楽しい? 疲れない?」  藍は叩かれた手を擦って徐に立ち上がる。ぱんぱんと砂を落とし、黒髪の隙間から夕の顔を鋭く見上げる。 「そんな窮屈そうな生き方でさ。あんた、可哀想だよ。人を見下してばかりで誰かを愛おしいと感じた事もないんだろ?」  憐れみの瞳に、かっと頭が熱くなった。 (可哀想? 俺が?)  裕福な家に生まれ人々に愛されて生きてきた。  自分を育てた祖父母にも産んでくれた母にも感謝している。自分を律するのは将来の為だ。この生き方は決して乏しくはない。 「愛おしい? はっ、随分寒い台詞を言うんだな。ならお前はどうだ? ふらふらして真面目に女と付き合ってもいないお前になんか言われたくない」 「俺には紅がいる。俺が愛しているのはこの世で紅だけだ。紅より大事だと思える人間なんて、きっとこの先現れない」  幸せそうに微笑む藍を見て、夕は苛立ちを覚えた。 (何でそんな顔が出来るんだ)  どうして、そんな風に笑えるんだろう。  途方もない敗北感に夕はきつく拳を握り締めた。  それはきっと、嫉妬だった。  どこか自分と藍を重ねていた。けれど似てなんかいなかった。  夕は幼少期、両親が多忙で家を空ける事が多かった為祖父母に育てられたも同然だった。祖母の躾は厳しく、将来立派に家業を継げるようにと教養を積まされ遊びも友人も何もかもを制限され自由の少ない生活を送っていた。  立派な人間になりなさい。人の上に立てる存在になりなさい。強くありなさい。弱い者には優しくしなさい。  そうして育てられていくうちに、自分を『つくる』事を覚えた。祖父母が亡くなった後も祖母の教えは身体の芯に染みついている。  だから勉強を頑張った。進んで人を束ね生徒会長だってやった。我儘で怠惰で情けない素の自分は奥へ奥へと仕舞った。  好きだと言われるのは慣れていて、何人か女の子と付き合ったりもしたが『恋人』という演技をしているだけで本当に好きになれた事はなかった。

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