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24 最悪な日〈2〉
藍と言葉を交わさないまま下校まで過ごした夕は道場には寄らずバスに乗った。いつもなら駅で反対側のバス乗り場に回り別のバスに乗り換えて帰るのだが、夕の足は乗り場へは向かわない。乗り場とは別方向の出口となる階段を降りようとした夕は、窓の外に何気なく見えた人影にはっとして振り返り凝視した。
(雀谷利人……?)
背姿だけではそうとは断定出来ない。けれど僅かに見えた顔は、間違いなく利人のものだった。
(嘘)
利人はひとりではない。その隣には、彼の腕にぴったりと寄り添う女の姿があった。
(彼女、いたのか)
キスをしてあんなに顔を真っ赤にして慌てていたというのに、まさか男のみならず女までいたなんて。
信じられない。まるで裏切られたような気分だった。
(何だ)
変な気持ちを起こし掛けたのはやはり気の迷いだった。
心は冷めていき、次第に苛立ちが込み上がる。
自分が馬鹿みたいだと思った。
階段を降り、利人が歩いて行った方角をちらりと見る。もうその姿はなく、夕は誰もいないそこを睨みつけて裏道を歩いて行った。
***
駅から離れた場所にあるそこはあまり治安が良くなく、よく学生服を着崩した不良がたむろしている。
「白岡! 丁度良いとこ来た! 手ぇ貸してくれ」
「山下さん」
山下の顔を見つけると夕はすぐに状況を把握し、口の端を吊り上げ駆け出す。
案の定路地裏では不良共の喧嘩が勃発していて、夕は山下に鞄を預けると瞳を閃かして拳を振り上げた。
「よう白岡。相変わらずつえーな」
「どうも、橋田さん」
夕の蓄積されていく日々のストレスは相当のもので、溜まった鬱憤は山下達との付き合いで発散している。
長めに伸ばした黒髪を掻き上げた橋田は、お疲れさんと夕の肩を叩こうとして止める。転がった三人の不良を尻目に橋田は伸びをして切れた口の端を拭った。
二人と偶然出会ったのも路地裏で、喧嘩に巻き込まれて結果的に助けたのが山下と橋田だった。以降、親のいない放課後や夜は時折こうして彼らとつるんでいる。
夕は段持ちな上に喧嘩上手でいつも大した怪我はしない。喧嘩に立ち会うのは頻繁ではないし、うまく避ける為親や学校の連中に怪しまれる事もなかった。
「橋田さん、今日は誰か連れて行かないんですか?」
夕はゲームをする橋田の隣に立ってそう尋ねると、橋田はにっと唇を曲げる。
「何、溜まってんの?」
「少し」
嘘だ。
朝といい、昼といい、さっきといい。性欲もストレスも溜まりに溜まっていた。そんな事億尾にも出さない人の良い笑みを浮かべてはいるが内心はストレスでささくれ立っている。
橋田は古いアパートに一人で住んでいる為彼の部屋に行ってゲームをしたりAVを鑑賞したり煙草を吸ったりするのが毎回の常だ。
女好きの橋田が女子高校生を連れ込むのもよくある事で、夕は「可愛い」「かっこいい」と彼女達に人気で初めてセックスをしたのもその中の一人とだった。
異様にスカートの短い女子高校生を数人連れ、きゃらきゃらと甲高い声を聞きながら香水臭い少女に胸を押しつけられアパートへ向かう。
煙と香水の混じった匂い。テーブルの上に広げられたポテトチップス。気色悪い程甘ったるい声を出す少女は夕に凭れ掛かり誘うようにべたべたと触れて来る。
べったりとグロスで塗られた厚い唇。開いた襟元から覗く谷間。むっちりとした太腿。
下品でいやらしい。けれどそれらは夕の中のどす黒い欲求を駆り立てた。
抜けましょうか。そう誘うと、彼女は驚きも迷いもせず不自然に長くて濃い睫毛を揺らして頷いた。
外は暗く、空気は湿っていて風もない。
公園の中にある屋根付きで囲いのあるベンチから、卑猥な音と荒れた呼吸音、零れ出る生々しい喘ぎ声が静かな夜に落ちる。
(うるさいな)
黙って、と囁いて少女の口を手で押さえた。まだべたつく手の下の唇も彼女が自ら開いた脚も揺れる腰も、すべてが柔らかくて女を抱いているのだと鮮明に意識させられる。
(やっぱり男なんてありえない)
どこを触っても硬そうな身体。濡れないし、気持ち悪くて楽しくなんかなさそうだ。
(ああ、でも唇は柔らかかったっけ)
吸い付くような気持ちの良い唇だった。それだけは、この女より良かったかもしれない。
あの人はどんな顔をして父に抱かれるのだろう。
自分から腰を振るのだろうか。キスを強請るのだろうか。
幸せそうに笑うのだろうか。
「あ……」
ぞくりとした。
失望した筈の利人の事を無意識に考えていた事に。
父と利人の情事を想像してその行為にではなく彼のその姿を許せないと思った事に。
「夕? どうしたの?」
ぱた、と冷えた汗が頬を伝い落ちる。
夕のそれはもう完全に熱を失っていた。
(最悪だ)
今日は、何て厄日なのだろう。
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