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26 しけったクッキー〈2〉
「何してんの、夕君」
はっとして顔を上げると、そこにはいる筈のない人間が立っていた。
「雀谷……さん……?」
何で、と呟くように言葉が零れ落ちる。
随分ぼうっとしていたらしい。いつの間にか大分日は落ち、近づいて来る足音にも気づかなかった。
半袖のパーカーを羽織った利人の声や表情には棘がある。目を見開いたまま目の前に立つ利人を見上げていると、利人は見かねたように夕の右手首を掴んだ。そうされて初めて、ああ煙草かと気づく。
「雀谷さんも吸います?」
利人の手を払い目の前で煙草を咥えてみせる。紫煙を吐き出し、口角を上げて煙草の箱を振って差し出した。
(ま、乗らないだろうけど)
どうせ説教でもするのだろう。叱りつけるか? 殴るか? ああ、でも『教授』の息子に手は出せないか。そう思っていたら、手元でかさりと箱が揺れた。
「火、頂戴」
煙草を一本取り出し隣に座った利人に夕は面食らう。
あれ、吸う人だったのか。意外――そう思いながらライターを差し出すと、利人は煙草に火を点けぱくりと咥えた。
「う」
途端、利人は盛大にむせげほげほと咳き込む。
「ちょっ、吸えないのかよ! 何やってんですか」
あまりにも激しく咳き込む利人に呆気に取られると、利人は目尻に涙を溜めて擦れた声を出す。
「だって、吸うかって聞くから。でも駄目、まずい。辛いし。夕君、よくこんなの吸えるね」
「だっさ……」
「うるさーい」
けほけほとまだ咳き込む利人を見て、何だか可笑しくて笑えてきた。本当に何やってるんだか。
「雀谷さん、何しに来たんですか? 勉強は明日の筈ですけど」
「えっ」
凍り付く利人にまさかと思うと、利人はスマートフォンを取り出ししまったと言わんばかりに溜息を吐いた。どうやら曜日を間違えたらしい。
「馬鹿ですか」
「うっ。ごめん、明日の講義日程前倒しで今日あったからうっかりした……」
はあ、と項垂れる利人を呆れ顔で見下ろし、空き缶に煙草を落とす。さっきといい、今の発言といい。頭良いのに変なとこ抜けてるんだな、とますますもって可笑しくて笑いが込み上げて来た。
「っふ、ふふ。だからってそれはないですよ。雀谷さん抜け過ぎ」
「急にバイト入ったからあんま寝てないんだよ! あるだろちょっとうっかりする事!」
「いやあ俺はないですね。ないない」
腹を抱えて震えていると、利人は頬を膨らまして恥ずかしそうに眉間に皺を寄せる。利人が吸った煙草も伸びた灰ごと空き缶の中に入れられ、細い紫煙がやがてふつりと途切れた。
「なあ、ストレス溜まってんの?」
隣を見ると、利人の視線が真っ直ぐこちらを向いている事に気づいて笑みを引っ込める。
「煙草はまだ早いよ。吸いたいなら大人になってからにしな? あまり勧めないけど」
「身体に悪いから?」
「そう」
ぶっきら棒に答えると、至極真面目な視線を向けられ一瞬怯む。
「未成年の喫煙は身体に毒だって習っただろ? 俺、夕君には元気に生きていってほしい」
あまりにも真っ直ぐ見つめてくるものだから視線を外すタイミングを逃した。赤褐色の瞳に自分の姿が映る。
その顔がとても間抜けに見えて、ちりりと苛立ちが込み上がった。
「あんたには、関係ないだろ」
おかしなものだ。まるで利人にとって夕が特別であるかのような言い方をする。出会ってまだ一か月も経っていないような人間なんか本音ではどうでもいいに決まっているのに。
明日死ぬのも七十年後に死ぬのも同じ。他人にとっての自分なんて、所詮その程度だ。別に自虐的になっているんじゃない。きっと自分はクラスメイトや山下達が死んだって同情はしても嘆かないだろう。だから利人が死んだってきっと何とも思わない。
「何言ってんの、関係なくなんかないよ」
「父さんの息子だからでしょ? ああ、でもあんたは俺がいない方が逆に良いんじゃないの。あんた達にとって俺の存在は邪魔でしかないでしょうし」
そう毒づくと、途端に利人の顔色が変わった。
どうせ図星だろう。鼻で笑うと、ぐんと横から腕を引かれ体勢が崩れる。
「何、」
そして倒れ掛かった身体はぽすりと利人に抱き留められる。夕はいきなりの事にぱちくりと目を見開かせた。
「馬鹿にするなよ。白岡教授は関係ないし、そんな事一度だって思った事なんかない。好きだと思う人間を心配するのに関係も何もないだろ」
利人は縁側に脚を下ろしたまま腰を捻り夕の肩や頭を抱きかかえている。
その仕草に反し声は少し怒っているようだった。そういえばここに来た時も表情を曇らせていたが、今はその時よりも顕著に機嫌を悪くしているのが見て取れる。
「好き? あんたが、俺を?」
一瞬どきりとして耳を疑った。そんな事を言われるなんてまさか思いもしなかった。
けれど利人は、身体を離すと何故そんな事を聞き返すのかと不思議そうに首を捻る。
「嫌いな訳ないだろ?」
利人はそう当然の事のように言う。
ああ、そういう意味か。ほっとすると同時に何故か少しだけがっかりする。けれど何故そんなにも簡単に「好き」と言ってしまえるのか疑問を抱かずにはいられない。
だって利人の前では『良い子』を演じていない。どう思われても構わないと思っていたから言いたい放題言って傷つけた事もあっただろう。
だから嫌われて当然、好かれる方がおかしい。そう思っていた。
「何で? 俺、好かれるような態度あんたに取ってないのに」
「夕君変な事言うんだなあ。俺に嫌われたいの? でも、初めに会った時の礼儀正しい夕君より多少意地悪でも今の夕君の方が俺は好きだな。壁つくられると寂しいし」
その言葉は夕にとって衝撃的で、とても信じ難いものだった。
(好き? 今の俺が? 本当に……?)
じわ、じわり。胸の奥で形にならない感情が湧き起こる。
好きだという言葉は聞き飽きている。けれどそれらは皮を被っている自分に対する褒め言葉のようなもので、本当の自分を見てくれる存在なんて期待していなかった。
なのに利人は好きだと言う。
何も着飾っていない自分を認めてくれる。
ずっと視界を覆っていたどす黒い霧が晴れていくようだった。煙草を吸っている時の一時的な安らぎとは全然違う。それはもっと清々しくて心地良いものだ。
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