「俺といるのは疲れる？」 「いえ、全然。むしろ繕わなくて済むので楽ですが」 「だろ？　だからもっと俺に甘えて良いんだよ。好きじゃない相手の方が気ぃ遣わなくて済むって事あるしな」 　利人はそう言うと夕の頭をわしわしと掻き混ぜ、にっと笑った。 「ちょっと雀谷さん、頭」 「髪の毛さらっさら」 　からからと笑う利人の腕を押し退け顔を隠すようにしてぼさぼさになった頭を梳く。 　堪え切れず口元が緩んでしまう。何だかとても堪らない気持ちだった。 　けれどふと駅で利人を見掛けた時の事を思い出し、あっと声を上げた。何、と利人の視線が夕へと向けられる。 「雀谷さんって童貞の癖に彼女いたんですか？」 「はぁ⁈　いないけど、童貞の癖にってとこいらない」　 　眉を顰めながら「だって」と説明すると、利人は思い当たったらしく苦笑いを浮かべた。そして証拠画像と共に種明かしをされると夕もまた一層怪訝そうに顔を顰める。 「つまり彼女ではなく、彼氏だと」 「違う！　ただの後輩！　こいつとは何もないから！　勝手に俺をほもにしてくれるな」 「ほもじゃないですか」 「あっ。い、いやでもそれも違うし」 　怪しい所だが利人の様子を見る限り本当に恋人関係ではなさそうだ。 　色々と思う事はあるがやっと納得する。やはり利人はそういう器用さは持ち合わせていない。 　夕はほっと安堵した。 （……何で、ほっとした？） 『夕は雀谷さんに何を期待しているのかしら』 　母の言葉を思い出す。 　父に対して一途な付き合いをしてほしいなんて事は決して思っていない。 　むしろ父との付き合いなんて今すぐ辞めてほしい位だ。 「ふっ……ぁ、ごめん」 　利人は目尻に涙を溜め欠伸を噛み殺す。瞼は重ったるく眠たげだ。 「そういえば寝てないって言ってましたね。掛け持ちしてるって言ってた居酒屋のバイトですか？」 「いや、昨日は知り合いの工場の方。人手足りない時にたまに呼ばれるんだ」 　そろそろ限界なのか、利人は瞳を閉じてはびくりと身体を揺らして目を開けるのを繰り返す。 「悪い、邪魔したな。夕、また明日来るか……あっ」 「もう呼び捨てで良いですよ。呼び難いんでしょう？」 　利人は口元に手を当てきまり悪そうに眉を下げる。 「君付けって慣れてなくて」 「良いですよ。俺もこれからは『利人さん』って呼ぶ事にします」 「あ、それ嬉しいかも」 　眠いせいかとろりとした瞳で頬を緩める利人にどきりとした。逸る鼓動にきゅっと拳を握り締める。 「まだ当分誰も帰って来ませんし眠いなら寝て行って良いですよ。俺、何か掛ける物持ってきますから」 「あー、ごめん助かる。今ならおやすみ三秒で眠れそう。気にしなくて良いから、場所だけ借りるわ」 　利人はそう言うとごろりと横になる。 　暑い季節とはいえ夕方は少し冷える。夕はタオルケットを取りに自室に戻った。 （客用とかどこにあるのか分からないし俺のでいいか） 　きょろ、と部屋の中を見渡してふとゴミ箱に目が留まる。 （あ、さっき……） 　クッキーを捨ててしまった事を思い出してちくりと胸が痛んだ。ゴミ箱の中から包みを拾い、クッキーを口の中に放り込む。 　もぐもぐと咀嚼し、残っているクッキーもすべて食べる。それはもう湿気ってしまっていたけれど、それでも美味しかった。 「ご馳走様でした」 　指を舐め、そうぽつりと小さく呟く。 　ああ、そうだ。夕はポケットに手を突っ込み、数本しか減っていない煙草の箱を取り出すとくしゃりと握り潰してゴミ箱の中へと投げ入れた。もう、これは必要ないだろう。 　他人はすべて同じ、一歩抜き出ているとしたらそれは親位で、後は皆同じ顔をしているようなものだった。 　けれどその平坦な列から利人が一歩足を踏み出す。 （利人さん、が、いなくなるのは嫌だな） 　きっと利人が死んだ所で何も感じないと思っていた。 　けれどそれは違うのだと、今なら思える。 　思い出したようにスマートフォンの電源を入れると、タイミングを見計らったように電話が鳴り響いた。着信画面には橋田の名前。山下だったら切ろうかと思ったが、彼だったら良いかとスマートフォンを耳に当てる。 『白岡ぁ、お前これからこっち来れる？　人数足んなくてさ』 　俺の電話には出なかったのにー！　と背後で喚く声が聞こえる。すみませんと断った後、空の包みが目に入りああ違うと思い直す。 「もうそちらには行くのを止めようかと思います」 　山下だったなら何でどうしてと食い下がっただろう。けれど相手は橋田。ふーん、そう、と帰って来る声は突き放すようでいて柔らかい。 　来たくなったらまた来いよ。そう答える声は大人びていて、好きとも嫌いとも考えた事はなかったが案外悪くない人達だったと思った。 　薄暗い縁側に戻ると利人はすやすやと心地良さそうに眠っていた。タオルケットを掛けてやり、散らばった髪の毛を指先で梳く。 「……利人さん」 　こんこんと深く眠っているのか、反応はない。 「俺、触っても平気な男なんて貴方が初めてなんですよ。自分のタオルケットだって、貴方じゃなかったら貸してない」 　さらさら、さらさら。少し硬くて短い髪は自分のそれとは全く質感が違う。 「ねえ、利人さん。分かりますか。それってすごい事なんです。今俺は、すごく気分が良い。こんな気持ち、いつ振りだろう」 　もしかしたら初めてなんじゃないかと思う程満ち足りた気持ちだった。 「利人さん」 　くすぶっていた感情が溢れ出しそうで。でもそれが何なのか分からなくて。利人の顔を見つめていたら切なくて嬉しくて、気づけば顔を寄せていた。 　静かな寝息を立てる唇に自分のそれを軽く押し当て、そっと離れる。 　唇には余韻。感触を確かめるように自分の唇を指でなぞり、薄く開いた唇から熱い吐息を吐き出す。 （ああ、そうか） 　すとんと気持ちが落ち着く。 　それはすんなりと胸に馴染み、一層の温かな熱を帯びる。 （愛おしいって、こういう気持ちの事を言うんだ） 　じんわり、じわり、涙が出そうな程胸に響く。 　この人の事をもっと知りたい。そう思った。