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43 昼下がりのボーイズトーク 〈2〉

 言葉に詰まった夕が目を泳がせると、ぴたりと窓の外に視線が止まりガタリと席を立った。  スケッチブックを抱えた子供達や紅がいる植物園の手前の道路を榛(はしばみ)色の髪の男が歩いている。 (父さん……)  ぎゅうと拳を握り締める。利人への愛しさが募ると、比例して父への恨みも募っていく。 「白岡?」  不審に思った藍が夕の視線の先を追う。 「知り合い?」 「俺の父親」  建物の影を歩くその姿はやがて背姿へと変わって見えなくなる。  利人は父の研究生だ。研究室に出入りするのはごく自然の事だろう。 夕方まで続く講義が終わった後、彼は父のいる研究室へ向かうのだろうか。 父に、会いに行くのだろうか。 そして、そして。 「鴉取。俺は男となんて興味ない」 「うん、知ってる」  藍は雑誌をぱらりと捲り、頬杖を突いて頷く。 「でも……あの人だから、俺は」  ぐしゃ、とノートに皺が寄る。独り言のように呟かれた声は震えていた。 「何で、よりにもよって」 「おい、白岡……」  不毛だ。  父の愛人を好きになるなんて、たちが悪い。  でももう引き返せない程この心は利人への想いで占められている。  はあ、と椅子に座り直し項垂れた頭をごつりとノート越しの机にぶつける。 「複雑そうだな」 「滅茶苦茶複雑だよ馬鹿。こんなの誰にも言えない」 「当ててみようか?」  悪戯にそう口にする藍に夕の視線が引かれる。  じっと続く言葉を待つ夕に藍は目を細め、薄い唇を開いた。 「お父さんの事、好きなんだね」 「ちげえよ」  何でだよと思い切り顔を顰めると「あれ、違った?」と藍はのんびりと首を傾げる。 「じゃあ誰?」  藍の問い掛けに夕は躊躇いがちに視線を下げる。  視界に映るのはノートに問題集、それと利人がわざわざ情報収集をして買って来てくれた参考書。 「家庭教師。ここの大学生なんだ」 「ああ、だからわざわざこんな所にいるんだ。この後会うの?」  もう会った、と言うとそうかと藍が頷く。参考書を指先で撫でるとざらりとした感触が指の腹に響く。 「でも、男なんだ。その人」  言葉にすると改めて『普通』ではない異質さに心臓がずしりと重くなる。 「おかしい、よな。自分でも信じられないけどさ」  はは、と夕がぎこちなく笑うと、藍は黙ったまま黒目がちの瞳を正面に向ける。 「別に、良いんじゃないの。好きなんだろ?」  きっと藍の瞳には紅の姿が映っているのだろう。視線の先を辿らずとも想像がつく。  藍は少し変わっている。夕が今まで出会った事のないタイプの人間だ。  ただひたすらに片割れを愛しているから、彼以外眼中にないから、およそ一般的な人間が抱く思考を持っていない。面白がるだけの余計な詮索もしない。  気づけば話してしまっていたのは、だからだ。 「好きだよ」  薄らと頬を染め俯く夕に、藍はふっと目を細める。 「白岡でもそういう顔するんだな」 「何だよ、それ……」  別に、と言って藍は雑誌のページを捲る。  夕も転がっていたシャープペンシルを手に取り問題集に向かった。    ***  子供教室を終えた紅を迎えに藍が去った後も夕は図書館に残り、集中講義が終わる頃を見計らって外へ出た。  恐らく利人が通るであろう講義室の前の通りをうろうろする姿は落ち着きがない。  ベンチに座り手持ち無沙汰にスマートフォンに触れる。メールアドレスも電話番号も利人が家庭教師につくと決まった時交換したが、事務的な事以外でのやり取りはあまりない。  だからメール画面を立ち上げるものの何も打たずに閉じた。  何も思い浮かばないのだ。  今会えませんか、なんて言っても何を話すというんだ。そんなの訝しがられるだけだ。それにこれまでの自分は突然そんな事をメールで言うような人間でもなかった。  だけど会いたかった。  それに講義が終わった後、どこへ行くつもりなのかも気になる。 終令が鳴りはっとして顔を上げると講義室の扉が開け放たれぞろぞろと学生が出てきた。  緊張しながら次々と出てくる学生の顔を見るが、利人の姿は見えない。不安が募る。 (待てよ。確か裏にも扉があった。もしかしてそっちから出た? 父さんの所へ行った……?)  胸元のシャツを握り締め、唇を軽く噛む。  けれどその唇は次の瞬間薄く開かれた。 「あ――」  ばらつく学生の中に利人の姿を見つけて肩の力が抜ける。  利人に声を掛けると、利人は夕の言葉を鵜呑みにしたらしく本当に偶然だと思っているようだった。 「あの、利人さん。この後父さんに会いますか?」  羽月がいなくなり二人きりになると、夕は思い切って口を開く。  そんな夕に利人は僅かに目を見開かせた。 「いや? 提出物も頼まれ物も特にないからこのまま帰るつもりだけど。どうした、何か用事?」  利人の言葉に夕はぱっと顔を輝かせ否と首を振る。  それなら良いんですと言うと、利人は首を傾げた。 「じゃ、帰るか」 「え?」 「途中まで一緒に帰ろうぜ。方向同じだよな?」  今度は夕が目を丸くして唇を弓なりに曲げる。 「――はい」  じわり、胸が温かくなる。  彼にとっては些細な事なのだろう。それでもその一つ一つが夕には堪らなく嬉しくて、小さな幸せをそっと噛み締めた。

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