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52 墓参り
「じゃ、先行ってるね。母さん」
車を降りた利人はビニール袋を手に下げ運転席にいる母に声を掛ける。
「場所分かるわよね?」
「うん」
伊里乃も降りたのを確認すると母は駐車場に向けて車を走らせる。
「ふあ……。伊里乃、バケツ取って来るからちょっと待ってて」
「りー兄待って、私も行く」
利人は欠伸を噛み殺す。時刻は人々が朝食を食べているかまだ寝ているであろう早朝で、まだ暑くはないが天気が悪く湿気が立ち込めている。利人は曇り空の下砂利道を踏み締め、沢山並んだうちの一つのバケツを手に取った。
利人の手にはバケツの他に線香や数珠の入った袋が。伊里乃の手には菊を中心にしたリボンのない花束が握られている。
今日は毎年恒例の墓参りの日だ。父はどうしても抜けられない仕事が入り出掛けてしまった為今年は三人でこの墓地へ足を運んでいる。
「パパ、別の日にお参り行くって言ってたけどそれなら何も今日無理に来なくても良かったんじゃない? また行くんでしょ?」
「前野家の墓参りはお盆の最終日に行くってもう習慣になってるからなあ。俺達は今日だけで良いんじゃないか?」
お盆には毎年二カ所墓参りに行く。父方である雀谷家の墓と母方である前野家の墓だ。
けれど母の再婚相手である父とは当然血の繋がりはなく、その墓に見知った故人はいない。だから馴染みがあるのは祖父の眠るここの墓だ。
「母さんは死んだらどっちの墓に入るんだろう」
ぽつりと何気なく零れ出た言葉に伊里乃が目を丸くする。
「雀谷家じゃないの? パパと離れるのは可哀想だよ」
「そうだな」
聞かれていた事に少し驚きながら、当然のようにそう返す伊里乃に利人は胸の辺りがほっと温まるのを感じる。
(伊里乃が良い子に育ってくれて良かった)
初めの頃は年頃なのもあって新しい父親に馴染めずにいたけれど、そんな伊里乃が懐くよう間を取り持ったのは他でもない利人だ。
幼少期に父が死んでから母はずっと苦労してきたし伊里乃もずっと寂しいのを我慢してきた。
子供の頃の利人ならば親の再婚に反感を持ったかもしれないが、大人になっていくにつれ女手一つで二人もの子供を養っていく事の大変さを痛い程理解したし、伊里乃を死なせ掛けてからというもの強い責任感を抱くようになった。
本心では父親を欲していた伊里乃だ。一時は父の代わりに家族を守ろうともしたが、母と妹が望むのなら新しい父親を拒む理由はない。
「ねえ、りー兄」
ざくざくと砂利道を進む。声が遠ざかり振り返ると、左右に広がる墓地の中伊里乃が足を止めて他人の墓を眺めていた。
「前のパ……ううん、やっぱいいや」
伊里乃は視線を利人に戻すと笑って利人の隣を追い越していく。
伊里乃が何を言おうとしていたのか、大体の予測はつく。
(『親父』の事か)
前のパパ、と続く筈だったのだろう。
伊里乃は生みの親である父親の記憶が殆どない。彼の墓は遠くの場所にあるからもうずっと墓参りも行っていなかった。
子供の頃は伊里乃に父親の話をせがまれる事もあったが、いつしか二人きりの時でも殆ど口に出さなくなった。
親だけでなく利人にも気を遣ったのかもしれない。
いいのになあ、と思っているとふと話し声が聞こえて顔を上げる。
「え」
伊里乃と話しているのは白岡と周藤だった。あまりの偶然に瞠目する。
「おはよう、雀谷君。朝早くからこんな所で会うなんて奇遇だね」
「おはようございます、白岡教授。周藤先生も。お二人もお参りですか」
「そう。雀谷君も?」
白岡の問い掛けに頷く。二人に会うのは四日振り、バーで別れて以来だ。
先日はご馳走様でしたと頭を下げてから、ふと周藤の顔を見て頭を傾げる。いつもより表情が硬い。
眠いだけかもしれないが、よくよく考えれば分かる事だ。ここは沢山の死んだ命の眠る場所であり、残された人が故人を悼む場所なのだから。
背後から足音が聞こえて振り返ると、母がのんびり歩いて近づいて来るのが見えた。
「お待たせ利人。そちらの方達は?」
「大学の先生。偶然会ったんだ。思想史ゼミの白岡教授と、東陵大学の周藤先生。ほら、海で一緒だった先生方だよ」
母親はまあまあと口元に手を当て、その節は息子達がお世話になりましたと頭を下げる。
「貴方達、先に行っていてちょうだいな。お母さん先生方にご挨拶したいから」
「母さん、迷惑になるからあまり長く引き止めないでよ? すみません白岡教授、お急ぎでは……」
ちらりと白岡を見ると、白岡は目を細めて大丈夫と手を上げた。
「気にしないで。僕も君のお母様にきちんとご挨拶がしたい」
それならばとお辞儀をして後ろ髪を引かれながら伊里乃と先へ進む。
ちらりと後ろを振り返り見ると大人三人向かい合って何事か話していて、まるで学校の面談のように見えた。
「こんな時間にいるの私達位かと思ったけど他の人もいるんだね。家から近いのかな」
「いや、白岡教授の家はこの辺じゃないよ。もし近くにあるとしたら周藤先生のご実家とか、」
途中の水道でバケツに水を汲む。伊里乃の何気ない呟きに答えながら利人は記憶を掘り起こし、あれと心の中で呟く。
時期からして、白岡達も利人と同じように家の墓参りかと思ったがそれなら家族で来るのではないだろうか。椿や夕、樹は来ていないように見える。
二人の共通の知人がここにいるのかもしれない。長い付き合いならばそうした人間の一人や二人いてもおかしくはないだろう。
重くなったバケツの取っ手を握り目的の墓の前に立つ。墓石の頭に水を垂らし墓の背後へ回った時、ふと居並ぶ墓石の向こうに白岡の姿が見えた。
母と周藤は背を向けていたが白岡はこちらへ顔を向けていて、目が合ったと感じた利人は軽く頭を下げる。
けれどタイミングが悪かったのか白岡はふいと顔を背けてしまった。目が合ったと思ったのは利人の勘違いだったのかもしれない。離れているから利人がいた事にさえ気づいていない可能性もある。
「りー兄、どうかした?」
「ん、何でもない。伊里乃は周り掃いてくれるか」
ジャ、ジャッとたわしで墓石を擦る。
暗い空の向こうで、ごろごろと唸る音が聞こえた。
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