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53 最後の夜〈1〉

 夜の十一時。利人の勤め先の居酒屋は客足が落ち着いてきていた。  窓の外では土砂降りの雨が地面を強く打ちつけている。客は「雨すごいねえ」などと口にしながら天気が落ち着くのを待つようにのんびりと酒を飲んでいる。  テーブルの上を片付けて空いた食器を運んでいた利人は、いたいたと店長に声を掛けられ顔を向けた。すると店長の後ろにいる男を見てぎょっと目を剥く。 「白岡教授⁈」 「こんばんは、雀谷君」  白岡は今朝会った服装のまま、けれど雨風に打たれたのか所々身体を濡らしていた。 「どうしたんですか? こんな時間に」 「うーん……お酒を飲みに、かな?」  かな? ではない。呆れながら半個室の部屋へ案内すると、白岡はハンカチを持っていないのか濡れた顔や身体をそのままに席に落ち着く。  未使用のタオルを借りて来て白岡に渡しても、悪いねと言って何となく手を拭くだけで白岡はどこかぼうっとしている。  じれったくてタオルを取り上げ拭いてやると、白岡はされるがままじっとしていた。 「何だか教授、大きい子供みたいですね」 「うん……? でも、雀谷君をパパと呼ぶにはちょっと若過ぎるね」 「いや、教授にパパって呼ばれるとか意味分からないですから」  白岡はふふっと静かに微笑む。 (何だ?)  話しかけようと口を開くと、色素の薄い瞳に射抜かれ思わず息を止めた。薄暗い照明のせいだろうか、いつもならば柔らかい瞳はどこか暗い。 「ねえ、利人君」  ぎくりとした。店内を穏やかに流れる音楽もそれに薄らと重なって聞こえていた雨音も遠ざかって聞こえる。 「今晩付き合ってよ」 『スイッチ』の合図は身体に染みついた。獰猛な獣のような色を潜んだ瞳も初めてではない。  そう、初めてではなかった。  脳裏を過ぎるのは見知らぬホテルの天井。訳も分からず無理矢理組み敷かれたあの日。 「きょう、じゅ……?」  ごくりと唾を飲み込む。 (まだ水曜じゃないのに)  不意打ちだった。今日は火曜日だ。もしかして明日利人が研究室へ来ないと踏んで前倒しして来たのか。 (いや、そんな事は関係ないか)  元々の付き合いもただ白岡にとってたまたま水曜日が都合が良かっただけの話だ。大学が長期休暇に入って自由度が増した為かもしれない。  けれどそれでも、何の予告もなく態々深夜にバイト先へ来るとは思わなかった。  白岡は微笑んでいる。  断ったらどうなるだろうか、そう思ったけれどどうせ仕事が終わった後は家へ帰るだけだ。明日も勿論講義はないから少し位遅く起きても許される。おまけに今日は忙しくなかったから然程疲れてもいない。  大丈夫、きっといつもと同じだ。それなら断る程の事ではない。  ふう、と静かに息を吐く。 「あと一時間位で上がりですので、それまで待っていてくれますか」 「うん。じゃあ、焼酎水割りね」  かしこまりました、と言って席を離れる。  思えばこの時、もっと注意すべきだったのだ。  いつもの事だと、少し苦しいのを我慢すれば済むと思って安易に受け入れたのが間違いだった。  そもそも最初から信じていいような相手ではなかった。気を付けているつもりでも、いざとなったらどうにかなると本当に思っていたのか。  分かっているつもりで、何も分かっていなかったのだ。  白岡教授はこんな事はしない。  白岡教授は言えばちゃんと分かってくれる。  何の確証もないのに、慣れがそんな思い込みをさせた。

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