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55 デート未満〈1〉
大変な問題が起きた。
今朝メールでそれを知らされた時には自分の目を疑ったけれど何度読み返してもそれは事実であり、彼らに腹を立てど受け入れるしかなかった。
もしこれが男女間の正式なデートであったならそんなメールは来なかったのではないか。空気を読めと言っても男同士だから読む意識もなかったのかもしれない。
そこまで考えたけれど、それでもこれは非常識だと思う。
彼は、利人は常識ある人間だしとんちんかんな天然でもないだろう。
ただ時折螺子の緩い所がある。それは彼の愛すべき長所であり困った短所だ。
それは人が良過ぎる事。
そして、
「利人さん、お待たせしました」
夕は待ち合わせ場所に着くと利人の姿を見つける。今日は待ちに待った利人との映画デートの日だ。
利人は花が開いたようにぱっと笑って夕を迎えた。差し色の入ったタンクトップに遊びのある半袖のシャツ、カーゴパンツを身に付けた利人はいつもより心なしか洒落ているように見える。
ではいつもはセンスが悪いのかと言われるとそういう訳ではないが、地味な服を好んで着ているのは確かだ。そういった手持ちの中でも今日の服装は幾分華やかで目を引かれる。よそいき、という言葉が頭に浮かんだ。
今日の為に色々考えてそういう服を選んでくれたのかと思うとぐっと来るものがある。利人にとってはこれはただの男同士の遊びだと思っているのだろうが、それでも少しでも特別に思ってくれているなら嬉しい事この上ない。
彼一人であったなら、本当にそう思う。
「急に悪いな。伊里乃もあの映画観たいらしくって」
「夕君こんにちは。お邪魔します」
(ほんと邪魔)
利人の隣にはレースのついたワンピースを着た伊里乃が悪びれもなく立っている。夕は笑顔の下で悪態を吐きたいのを堪えた。
もう一つの螺子の緩さはこれだ。呆れる程利人は妹に甘い。お蔭で二人きりで楽しむ筈のデートの計画は脆くも崩れ散った。
「いえ、でもわざわざ今日じゃなくても良かったのに。伊里乃さん、俺みたいにあまり話した事のない男と一緒じゃ楽しめないんじゃないですか?」
「そんな事ないよ、りー兄も一緒だもの。それに、この映画一緒に観に行ってくれそうな友達いなくって。折角男同士で遊ぶのに急に混ざってごめんね?」
「いいえ、また機会はありますから」
夕と伊里乃の笑顔の毒の吐き合いに気づいていないのは利人だけだ。和んでいる利人にくるりと振り向いた夕は利人の服を指差す。
「それ、良いですね。似合ってます」
「そう? へへ、伊里乃に選んでもらったやつなんだ。伊里乃も可愛いだろー、ピンクもあって迷ったんだけど白にしたんだよな」
言うんじゃなかった。恋人か。利人の顔は緩み切っている。
ぱちりと伊里乃と目が合うと、勝ち誇ったかのようにふふんと笑われ眉をぴくりと動かした。
探り合い、牽制し合いのような会話を弾ませて三人で映画館へ移動する。
チケットを購入し利人がトイレへ行っている間ラウンジの椅子に座って待つ。利人が男子トイレの中に消えた頃、それまで黙っていた伊里乃が徐に口を開いた。
「ねえ、夕君。一昨日の夜りー兄と会った? メールとか電話とかした?」
「一昨日?」
頷く伊里乃に夕は首を横に振る。そう、と落胆する伊里乃はさっきまでとは打って変わって神妙な顔つきをしている。
「何かあったんですか?」
声をきつくしてそう尋ねると、顔を上げた伊里乃はきゅっと眉を寄せて睫毛を伏せる。
「一昨日の夜、りー兄バイトだったの。でも帰って来る時間になっても中々帰って来なくて、長引いてるのかと思って私寝ちゃったんだけど、そしたら朝早い時間に帰って来て。目ぇ覚めちゃったし、気になったから顔出したら泥だらけの格好してた」
顔を顰めると、伊里乃は利人がまだ戻らないのを確認して言葉を続ける。
「りー兄はそれまで先輩の飲みに付き合ってて、帰りに転んだんだって笑ってたけど。寝てないからって昨日なんかずっと部屋に籠りっぱなし」
「それは……大学生なんだし、そういう事もあるんじゃないですか?」
夕の問い掛けに伊里乃は軽く睨み、不服そうに自分の膝の先を見つめた。
「そうかもしれないけど、でも、りー兄は遊びで朝帰りなんかした事ないの。仕事が終わった後は真っ直ぐうちに帰るのよ」
伊里乃は膝の上のワンピースをぎゅうと握り締める。
(これは思った以上に重症だ……)
利人も利人だが、伊里乃はある意味利人よりも酷いのかもしれない。
嫌われているな、とは感じたが伊里乃に良く思われていないのはきっと海水浴の夜利人の傍を離れなかったから伊里乃にはそれが面白くないのだ。恋愛感情だとは流石に思っていないだろうが、ただでさえこうなのに利人に女友達、ましてや恋人なんて出来た暁には嫉妬で利人に口も聞かなくなるのではないか。
「利人さんも大人ですから朝帰りもしますって。大丈夫ですよ」
夕のフォローに伊里乃はまだ納得出来ない様子でむくれている。
「ただいまー。伊里乃どうした? 腹でも痛いのか?」
「何でもない。行こ」
戻って来た利人が伊里乃に声を掛けると、伊里乃はぷいとそっぽを向いて入場ゲートへと向かってしまう。
「何話してたんだ?」
「利人さんが朝帰りしたって話。伊里乃さん怒ってましたよ? 利人さんでも夜通し遊んだりするんですね」
冗談めかしてそう言うと、利人はえっと目を見張らせる。けれど凍り付いたように止まったその顔はすぐにへらりと緩んで苦笑いを浮かべた。
ちくりと、その表情に違和感を覚える。
「でもって何だよ、俺もそれ位するって。伊里乃何か素っ気無いと思ったけど、それでかあ」
困ったな、と言う割にどこかほっとしているように見える。
(そういえば、昨日の朝方誰かが出入りした音が聞こえたけどあれはもしかして父さんだったのか?)
父は家を出るのも戻るのもまちまちで夜中や朝方に帰って来る事も珍しくない。だからそれが父でもおかしな事ではないし、家政婦だろうと思ってもいた。
思い過ごしであってほしい。けれど、伊里乃の真剣さに当てられたのか急に落ち着かなくなる。
夕は歩き出しながら利人の横につき声を抑えた。
「利人さん、父さんと会っていたでしょう。誤魔化さなくて良いですよ、聞いてますから」
「……え、聞いて……?」
利人は足を止め、硬直する。
その瞳に戸惑いの色が滲んでいたのを夕は見逃さなかった。
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