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56 デート未満〈2〉

 利人が急に足を止めた為に、入場ゲートの前で立ち止まっていた伊里乃は不審そうにこちらを見ている。  それを横目で見た夕はぱっと表情を切り替えた。 「利人さん、早く行きましょう。伊里乃さんが待ってますから」 「あ、ああ」  固まってしまった利人の腕を引いてゲートを通る。チケットの半券を受け取っていると伊里乃はひざ掛けを借りる為にスタッフが用意するのを待っていた。  夕は伊里乃に聞こえないよう隅へ寄って声を落とす。 「俺が言ったのは朝墓地で偶然会ったって話ですよ。母さんから聞きました」 「……あ、」  利人はしまったと言わんばかりに眉を下げ気まずそうに睫毛を伏せる。  はあ、と深く溜息が零れた。 「伊里乃さん、随分怪しんでましたけど本当なんじゃないですか。随分と仲良しなようで。ああ、そういえば今日は……また今夜も『逢引』ですか?」  ふつふつと苛立ちが込み上がる。  こんなのは八つ当たりだ。それでも声に出てしまう。 「ないよ」  利人はぽつりと零れるように呟く。 「そういうのは、もうないんだ」  はっきりとそう言い切った利人は顔を背けていてどんな顔をしているのか分からない。 「利人さん……?」  手を伸ばし掛けるもその身体は夕に背を向けて遠ざかる。 (どういう事だ?)  直に飽きられると利人は以前言った。  それがついに現実のものとなったのだろうか。 (本当に?)  利人の声も態度も何故だか晴れやかなものではない。  何があったんですか。  何を話したんですか。  聞きたい事は山程あるのに、心配なのに、腹の奥底の暗いところでは喜んでいる自分がいた。  劇場内は暗く大画面のスクリーンでは様々な映像が映し出される。  イタリアンマフィアの仲間の絆を描いたその映画はとある事件に巻き込まれた主人公達がそれぞれの葛藤を経て敵に立ち向かうアクション映画だ。  年齢制限が敷かれているだけあり残酷な描写が見られ、中には男女のセックスシーンなんかもある。  男の手が女の太腿を撫で上げ女の服が肌蹴る。全貌は映されていないが何をしているのかは一目瞭然だ。感じ入った女の表情と生々しい声が劇場内に響く。  ふと利人がどんな顔をしてこれを見ているのか興味が湧いた。彼の事だからこういったシーンがある事を知らずに妹を連れて来てしまったのだろう。きっと気まずい思いをしているだろうと隣に座る利人を横目で覗き見た。  そして瞠目する。  利人は目を見開かせ、額には脂汗を滲ませていた。  夕はトントンと利人の腕を軽く叩く。びくりと驚いた利人は夕を見ると呼吸を抑え浅く息を吐いた。そして「何?」と言いたげにぎこちない微笑みを浮かべる。  ぎり、と唇を咬む。  出ますよと指で合図を送り、呆ける利人の腕を掴んで引く。通路側の座席だったのが功を奏し、スムーズに劇場の外に出られた。 「夕、何で……」 「何でって言いたいのはこっち」  戸惑う利人の肩を押して壁際に置かれたソファに座らせる。 「暫くここで休みましょう」  ハンカチを取り出して利人の額にそっと当てる。利人ははっとした顔をするとごめんと言ってハンカチを受け取り深く息を吐き出した。 「少しは落ち着きましたか?」 「ん、ありがとな。勝手に抜け出したから伊里乃気にしてるかもしれない。もう戻ろう」 「――駄目です」  立ちあがり掛けた利人の肩を押し戻し、再びソファに座らせる。利人はきょとんと目を瞬かせた。 「伊里乃伊里乃って、利人さんは本当に妹さんの事ばかりですね。けどそんな風に無理して笑ったって余計心配させるだけだって分からないんですか?」  伊里乃が心配している理由が今なら分かるような気がした。  本当の事が言えないのは仕方ない。男と抱き合っていたなんて言える訳がないだろう。  けれどそれを隠す為に嘘を吐くのを、きっと利人は完璧に熟せていなかった。夕は平気で嘘を吐けるがきっと利人にはそれが出来ない。だから詰めが甘い。すぐに綻びが出る。  仲の良い兄妹だから伊里乃は夕が知らない利人の癖もきっとよく知っている事だろう。 「利人さん、俺はあんたが心配なんだ。父さんとの事だって、自分が我慢すれば丸く収まるからとかそういう風に言ってるように聞こえる。あんたは平気なのかもしれないけど、それって異常だよ。自分ばっかり耐えて、気を遣って――利人さんは自分をもっと大事にすべきだ」  なあ、と語気荒く利人の肩を掴む。 「夕、痛い」 「……ごめ、」  皺の寄ったシャツから手を離そうとした時、肌蹴た肩に妙な痕があるのを見つけ手を止めた。  嫌な予感がして痕に重なっているタンクトップごとシャツをずらし眉を顰める。 「何これ」  利人の肩にはくっきりと歯で咬んだような痕が赤く残っている。  利人ははっとして青ざめ、痕を隠すように肩を押さえた。 「利人さん、ちょっとこっち来て」 「ゆ、夕っ⁈ 待っ、」  偶然目にした非常階段の誰もいない場所まで利人を引き摺り連れて来ると、利人の制止を振り切ってタンクトップの裾を胸の上まで捲し上げた。  利人は音にならない悲鳴を短く上げて夕の手を払いすぐに裾を下ろす。けれど夕の目には小さな花びらのような無数の赤い痕がしっかりと焼き付いていた。 「これは、その……」  言い訳が思いつかないのか利人のしどろもどろな声は行方を見失って途切れる。 「酷くされたんですか」  きっと利人の身体には見えないところにももっと父の残した痕があるのだろう。 (父さん、何でだよ。何なんだよ。利人さんを大事にする気もないのにこんな事――) 利人の身体を見つめながら静かに怒りを吐き出す夕に利人はゆっくりと首を横に振るう。 「乱暴にされた訳じゃない、けど……」  利人は苦しげにそう言うと、突然吹っ切れたようにふふっと少しだけ笑う。 「情けないな。自分をもっと大事にしろだなんて、立場逆じゃないか。年上なのに、お前に合わせる顔ないわ」 「利人さんが会いたくないって言っても、俺は利人さんの顔見たいけど」  利人は一瞬面食らうと申し訳なさそうに眉を下げて物好きだなと笑う。 「それじゃお願いだからこの事は忘れてくれよ。折角好きって言ってくれたのに、また嫌いになられたらそっちのが堪える」 「何ですかそれ。こんな事で俺が利人さんを嫌うなんて、そんな事ある訳ないでしょ」 「だってなあ。俺、今ならお前が俺に気持ち悪いって言った気持ちよく分かるんだ。男が女みたいに……なんて、気色悪いもんな」  何で今更そんな事を言うのだろう、とか。  そんな事言ったっけと一瞬本気で忘れていた事だとか。  思う事は色々あったけれど、少なくとも利人が深く傷ついている事だけは分かった。

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