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58 華道総会〈1〉
父に対して静観の姿勢でいた夕だが、今回は流石に堪忍袋の緒が切れた。
本当に関係を絶ったのか、そもそも利人との事は遊びに過ぎなかったのか、彼を弄んだのか。
もうこれ以上黙っているのは堪えられなかった。こうなるならもっと早く行動に移すべきだった。
一発殴りでもしないと収まらない。掴みどころのない父の事だ、すぐまた元の関係に戻りかねない。せめて釘でも刺して息子の前で約束させてやる。そう夕は息巻いていた。
しかし。
「軽井沢に避暑、ですか……⁈」
「ええ、そうよ。大学が休みの間はそちらの別荘で過ごすそうです。一か月はいるのではないかしら」
母はのんびりとそう言いながらグラスに麦茶を注ぐ。
(やられた)
直接面と向かって話さなければ意味がないのに、父は息子に一言も告げずに遠く県外の避暑地へと旅立ってしまった。
(でもこれで、当分の間利人さんは父さんに会わない)
ほっとしたが、折角臨戦状態に入ったと言うのに突然の休戦に落胆せざるを得ない。
母は黒目がちな瞳をすっと夕へ向けた。
「話は変わりますが、来月の総会に貴方も出ていただきます」
「はい」
総会とは年に数回開かれる白岡流華道総会の事だ。表彰式などの畏まった会の後には講習会が開かれ、夜には懇親会も開かれる。毎回五十人位は参加しているだろうか。そこには当然白岡流の重役も顔を揃える。
今年は市外の離れた場所にある産業会館で開催される。夕もよく付き添いとして参加しているが、今回は作品をひとつ展示する事になっていた。
「頑張ってね。皆楽しみにしているわ」
「はい。ご期待に沿えるよう、精進致します」
ちりりん、と風鈴の音に混ざって蝉の鳴き声が聞こえる。
八月も下旬に差し掛かり秋が近づいているというのに、まだまだ空気は熱が孕んでいる。
目蓋を閉じれば利人の顔が――溢れる蝉時雨の中想いを告げた時の記憶が蘇った。
***
九月に入り大分涼しくなってきたものの、まだ夏らしさが抜けない。今日は真夏日が帰ってくるだろうとニュースで報じられていた。
快晴の空の下車で移動する事およそ一時間。田園を抜け人と建物で賑わう街の中心に目的の産業会館がある。
会議室の他、観光地としても知られるこの地域の特産品を売る売店や工芸品の展示、実演などこの建物自体観光の一環となっている。
時間が近づくとぞろぞろとスーツや着物を纏った人間が集まり出した。会場には所々花が展示され、それぞれ花を見たり挨拶を交わしたりして過ごしている。
夕もまたきちりと着物に袖を通し母と共に会場に着く。家元の登場に会場内が沸いた。一人一人挨拶にと母の前に立ち母もまた目を細めてそれに応える。
夕は数歩下がってそれを見守る。ご子息もお元気そうでと声を掛けられる度に夕はにこりと微笑んで頭を垂れた。
「家元、そろそろ」
打ち合わせの時間が迫りこそりと母に耳打ちすると、母は静かに頷き集まった人々に微笑みを向ける。
「総会の時間が近づいて参りましたので、また後程」
上品な着物の袖を揺らして人々が空けた道の中を歩く。
総会は予定通り滞りなく進み、休憩を挟んで家元直々の講習会へと移った。夕は母を手伝い休憩中も休まず準備に追われている。
そうして講習会が始まると会場は総会の堅い雰囲気から一転空気が変わる。
花を生ける母は美しい。会場の誰もが息を呑む気配が伝わる。
夕はこれまで幾度となく母が花を生けるのを見てきた。母の花は彼女の可憐な容姿に反して大胆で情熱的で見る者を圧倒させる。
テーマに応じて静かで上品な花を生ける事もあったが、母の花を見慣れている夕にはそれが彼女らしいとは思わない。静かな母の心の内にはとても激しい熱が秘められている。
可憐と謳われる母が何故そんな激しさを持っているのか夕には甚だ謎だ。人は見た目ではないと言っても、彼女は性格も穏やかに見える。
けれどそんな母をずっと羨ましいと思っていた。
夕は基本的に大体の事はそつなくこなした。勉強もスポーツも努力すればその分成果に表れる。料理は不得意だが、する機会も必要性もないからしないだけで本気で取り掛かればきっと出来るだろう。
そんな夕が唯一壁を感じているのは華道だ。
子供の頃から沢山の作品を見てきた。師に花を習い始めてから何年も経つ。
それなりのものは出来るのだ。流石家元の息子だと褒められもする。自分でもバランスの良い整った美しい作品だと思った。
けれど華道を始めてから暫くして師に求められたのは『若い独創力』だった。
夕の作品は一見綺麗ではあるが、それは型通りで面白味のないものだった。
『お前の花には感情を感じられない』
『何も伝わってこない』
そんな事を言われても困る。感情を込めろと言われたって土台無理な話だ。この心はひねくれているから、それを表してしまえば醜いものが出来上がるだけ。
どんなに心を偽る事が出来ても、お前は人形のような中身のない人間だと花に言われているようだった。
花に魅入られたならそれも少しは違ったのかもしれない。幼少の頃から花に囲まれ花を愛していた母とは違い、夕は同じような環境下にありながら花に何も思わなかった。
家が華道の家筋だから生け花を習うのは当然の事。祖母が立派な後継ぎになりなさいと言ったから何でも上を目指した。だから未来であり義務であるそれに喜びを感じる事はなかったのだ。
夕の作品は決して悪い訳ではない。ただ、家柄求められるものが高い。
もっと気を抜け。自由に発想しろ。そう言われても、芸術性に乏しく打算的で保守的な夕にそれは難しい注文だ。
だから今回夕が生けた花は、本当に、本当に珍しいものだった。
拍手喝采と共に母が深く頭を下げる。そこには母らしい大振りで、けれど繊細なところも含んだ華やかな作品が出来上がっていた。
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