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59 華道総会〈2〉
「夕さん、私は少々お話してきます。自由に休んでらしてね」
「分かりました」
講習会が終わり、この後は近隣のホテルに移動しての懇親会へと突入する。時計をちらりと確認するとまだ四時を少し回った程度で、懇親会が始まる時間まで十分余裕がある為会場に残って雑談している人は多かった。
「やあ、夕君。暫く見ない内に大きくなったね」
中肉中背の男が近づいて来る。ここでの夕の役目は母の補佐兼見学。
そして古株達のご機嫌取りだ。
ご無沙汰しております、と言って夕は頭を下げる。
「君が生けた花を見たよ。若々しくて良いね。ゆくゆくはお母さんの跡を継いで家元かな」
「恐縮です。ですが僕はまだまだ未熟者ですし、素晴らしい先生方は沢山いらっしゃいますから」
夕君は謙虚だなあ、と男は皺を深く刻んで笑う。
白岡流が代々世襲で継がれてきたと言ってもそれは必ずではない。厳しい戦争を乗り越えて来た歴史の中、親戚を養子に迎え入れて継いだ事もある。純粋な直系からは既に逸れているのだ。
けれど周囲は夕に期待するし、夕もそれに応えるべきだと思ったからストイックに励んできた。誰にも気を許さず大人の目を気にしてきたのだから反動も必然だ。
以前ならば華道の道へ一直線に突き進めたかもしれない。それ以外の道を選ぶなんて選択肢はないと思っていた。
そうではないと初めに知ったのは祖母が死んだ時だ。
将来貴方は何になりたいのかと問われ、母のような立派な華道家になりたいと答えた。それが模範解答だと思ったからだ。
けれど少しだけ笑った母はあまり嬉しそうではなかった。
『貴方の未来は貴方のものです。おばあ様のものでも、母のものでもないわ。だから、貴方は自分のやりたい事をやりなさい』
その言葉を聞いてから分からなくなった。けれど他にやりたい事はなかったから、きっとこのまま華道を生業にしていくのだろうとぼんやりと考えていた。
腕を磨き、立派な華道家になって母の跡を継ぐのが一番順当な道筋だ。それはきっとやりがいもあるだろう。
けれど最近はそれでいいのか迷いが生まれている。
それは本当に、自分がやりたい事なのか。
「夕」
名を呼ばれ振り返るとそこには髭を蓄えた老爺が立っている。
「甲斐先生」
夕の師である甲斐は髭を撫でぎょろっと瞳を動かした。
「今日の花はいつもより荒いな」
どきりとして唾を飲み込む。すぐ傍には夕が生けた花が展示されていて、甲斐は杖をついてそれに近づくとじっと見つめた。
「不器用だが年相応の瑞々しさを感じる。歪だが、悪くない」
え、と目を見張ると甲斐は踵を返し歩き出す。
「先生、ホテルにご案内します」
「うむ」
慌ててついて行く夕に甲斐は頷き一歩一歩静かに歩く。
じわじわと胸が高鳴っていくのを感じた。
「花を生ける時、何を思った?」
胸に込み上がるのはこそばゆく淡くそして苦いものだ。
夕は躊躇いの後重く唇を開く。
「大切な人の事を、考えていました」
甲斐はそうかとだけ頷く。
総会用の花をどんな風に生けるか試行錯誤を繰り返していく内、この花はあの人に似合いそうだ、この色はあの人の雰囲気ではないといつの間にか利人に結び付けていた事に気づいた。
そうして利人の事を考えながらこの作品が出来上がった時、ああ、何て醜いのだろうと思った。
赤みのある深い橙のマリーゴールドを囲むように緑が覆いアーチを描き、他の花々を遠ざけている。
均整の取れた美しさはそこにない。アクティブでアンバランス。不格好にさえ見える。
これは総会はもっての外、到底誰にも見せられそうにない。
ばらそう。そう思ったが、様子を見に来た母の口から告げられた言葉に唖然とした。
『総会はそれでいきましょう』
これはちょっと、と反論するも母の意志は固かった。
こうしている今もそれを人目に晒すのはまるで心の中を覗かれているようで恥ずかしい。
甲斐をホテルの会場まで送ると会館に戻ろうと踵を返す。まだ日は落ちていないとはいえ辺りは薄らと暗くなり始めていた。
スマートフォンを取り出しメールチェック。さっと目を通したその中に当然利人からのメールはなく、掌に収まるそれをきゅっと握り締める。
(利人さんの声が聞きたいな)
少しだけ、少しだけで良い。
逸る気持ちに押されるようにして連絡帳を引き利人の電話番号が表示される。どきどきと鼓動が鳴る中発信ボタンを押した。
「……出ない」
暫くコール音が続いたが電話はつながらず伝言サービスに接続される。しかし落胆と共に電話を切り溜息を吐いていると、突然着信音が鳴った。
画面には『雀谷利人』の文字。
「もしもし」
『夕? ごめんな、ばたばたしてて電話気づかなかった。何か用か?』
胸の辺りがざわめく。短く息を零した。
(利人さんだ)
残りの夏休みは集中的に勉強を見てもらっていたが学校が始まった今利人に会えるのは週に一度だけだ。
前と同じ生活に戻っただけなのにそれだけで時間の流れがとても遅く感じる。
耳に流れ込む数日振りの利人の声に心臓が高鳴った。
「いえ、今解決したので大丈夫です。すみません。……騒々しい音が聞こえますけど、今外ですか?」
『ああ、お祭りやってるんだよ! 陽葵のお父さんが屋台出すってんで、手伝ってるんだ』
がやがやと人の声と音楽が入り混じったような賑やかな音が利人の声と共に聞こえる。声が聞こえづらくて耳を澄ましていると、どんと通行人と肩をぶつけた。
「きゃっ、ごめんなさい」
「いえ」
二人組の少女は色とりどりの浴衣を着ていて、通り過ぎると夕をちらっと振り返っては肩を寄せ合いひそひそと楽しそうに話している。
(祭り……?)
周りを見渡すと他にも浴衣を着た女が何人かいた。そして傍に貼られたポスターに視線を止める。
「片岡祭り……?」
花火が描かれた目の前のポスターには今日の日付が記されている。
『そうそう、それ! よく分かったな』
驚く利人の声が雑音の中鮮明に聞こえる。脳裏に赤い花がフラッシュバックする。
ざわりと鳥肌が立った。
「俺、今近くにいます。ここに来てます」
『何? ごめんよく聞こえな、……はい! 分かりました! 悪い、もう戻んないと』
心臓の音がうるさい。
スマートフォンを持つ手がかたりと震えた。夏の名残の蒸せる空気が肌に纏わりつく。
「――今、そっちに行きます」
『え?』
ぶつ、と通話を切って走り出す。タクシーを捕まえ乗り込むと、弾んだ息を整える。
どうかしていると思う。
急に大事な会食をサボり、利人に会える確証もないのに行くなんて頭が馬鹿になっているとしか思えない。
それでも、今、どうしても彼に会いたかった。
(胸が苦しい)
呼吸は和らいだ筈なのに、それでも息苦しさを覚える。
(利人さん……利人さん、利人さん)
ぎゅっと胸元を押さえ熱い吐息を吐く。
急かされるように感情が高ぶる。押し留めていた熱はぎりぎりのところで理性を保っている。
目を瞑ると脳裏に赤い橙の花弁がちらつく。決して派手ではない、素朴さを感じさせる愛らしい花を閉じ込めるかのようなあれは夕の願望のようであり、作品の荒々しさはそのまま夕の心情のようであり。
「……ばくはつしそう、」
呟く唇は無意識に弧を描く。
最後の夏が終わろうとしていた。
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