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65 告白〈2〉
「雀谷君」
名前を呼ばれてはっとし、顔を上げるとまたいつもの白岡の顔に戻っていた。
「恨んでいいよ。許さなくていい。君との事は、本当に後悔しているんだ」
その言葉のひとつひとつは利人を慰めようとしているのに、利人はまるで追い打ちを掛けられているかのような錯覚を覚えた。
額からじわりと汗が浮かぶ。
「白岡教授、もういいですから」
「嘘だと思うかもしれないけれど、君の幸せを願っているのも本心なんだよ」
心臓が潰れてしまいそうだった。
利人は結局開けずにいたパックジュースを握り締め立ち上がる。
「俺は、気にしていません。だから白岡教授ももう気になさらないでください。療養中のところ、長々と失礼しました。それでは、どうかお大事に」
最後は目を見る事も出来ずに踵を返す。
扉を開けようとすると取っ手を握る前に扉が開き、目の前に夕が現れた。
「……っ」
「利人さん?」
この時自分は余程酷い顔をしていたのだろう。夕は眉を寄せて表情を険しくさせる。
気づかぬ振りをするように利人はじゃあなと言って脇をすり抜け病室を出た。
頭の中がぐちゃぐちゃで何も整理が出来ない。早く病院を出たくて足早に廊下を突き進む。
誰もいないエレベーターに乗りボタンを押すと扉が動いた。けれど扉が閉まり切る前にぬっと外から手が現れて目を剥く。
「夕」
「間に合った」
夕は息を切らしてエレベーターに乗り込む。扉は閉まり二人きりだ。
壁に寄り掛かった夕はちらりと利人を見て口を開く。
「大丈夫ですか?」
「大丈夫って、何が? それよりお前こそ白岡教授についてなくていいのか?」
「元々着替えを持って来ただけですから用事は終わりました。……利人さん、汗」
頬に触れられそうになりびくりと身体が強張る。
「あ……」
夕は睫毛を伏せると伸ばした手を下げる。しまったと思った利人は慌てて顔を上げた。
「ごめん、違うんだ……ちょっと驚いただけで」
「いえ、俺こそ……。すみません、ちょっと話聞こえちゃったんです」
気まずそうな夕の顔を見て、ああ、そういう事かと睫毛を伏せる。ポーン、と単調な音がしてエレベーターは一階に着いた。
「どこから聞いてた?」
「父さんが利人さんに酷い仕打ちをしたっていう下りから……」
「何だ、そんなとこから聞いてたのかよ」
すみません、と謝る夕に利人は苦笑いを浮かべる。
病院前のバス停はバスが行ったばかりのようでまだ誰もいない。利人はベンチに座ると、ほらお前もと隣を叩いて夕を座らせる。
「利人さんは、その……」
「何?」
夕は口にするのを躊躇うように言い淀み、いいえと首を振る。
「利人さん……大丈夫ですか?」
再び聞かれるそれに、見れば夕の真剣な瞳がさっきの白岡のものとは別の意味を持って突き刺さってくる。
「大丈夫だよ。逆に訊くけど、どうして俺が動揺しなくちゃならない訳? 今更身代わりにしてたって言われたってもう終わった事だしさ。ちょっとムカつくけどな」
はは、と笑う利人にそれでも夕は心配そうに眉を下げる。
「もう、何でお前がそんな顔するんだよ。平気だって言ってるだろ? それに白岡教授の話聞いてやっと分かったよ。ああいう理由があったんなら、わざわざ俺にするのも頷けるっていうかさ」
そう、すべての符合が一致した。
すっきりする筈だった。
なのに、心の中はまだ得体の知らない感情が渦巻いている。何にショックを覚えているのか、何で苦しいのか、それさえも分からない。
ただその動揺を悟られまいと笑った。
「それより、白岡教授思ったより元気そうで良かった。大した事ないとは言ってたけど、重い病気ではないんだよな?」
「ああ、言ってないんですね。ちょっと胃が荒れただけですから直に退院するそうです。それでも、暫くは自宅安静だと言われていますが」
「そっか。早く良くなるといいな」
ほっと胸を撫で下ろす。
するとそこへ右側から体重を乗せられ身体が一瞬傾いだ。
「何だ、甘えたか?」
「そうです。ちょっと寄り掛からせてください」
しょうがないなあとぽんぽんと夕の頭を撫で、あっと小さく呟いてそろりと手を引っ込めた。
「良いですよ撫でて。その代わり俺も触ります」
「何かやらしいなそれ」
くすくすと笑いながらまた夕の頭を撫でる。右側の熱が温かくて、掌に馴染むさらさらの黒髪が心地良くて、少しだけ目を閉じた。
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