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69 白うさぎとお茶会〈3〉

「あ、空いてる」  保健室のドアノブを捻るとキイと扉が開く。ドアノブには『不在』の看板が掛けられていて、保健室の中へ入ると先生も生徒も誰もいないようだった。  けれど夕に続いて保健室へ入った利人は顔を両手で覆って沈んでいる。 「すごい見られた……自分で歩けるって言ったのに……」  うさぎの耳をつけ小洒落た格好をした少年が男を抱えて走る姿は余程異様だったのか、もしくは何かのイベントだと思われたのか当然のように人々の注目を浴びながらここまで辿り着いた。 「利人さん、すみません」  眉を下げしゅんとする夕に利人はうっと息を詰める。 「あのままではうちの店の空気は悪いままで変な噂も出ていたかもしれません。店の為でもあったとはいえ、嫌がる利人さんを無理矢理公衆の面前に晒してしまった事本当に申し訳なく、」 「あああもういいよ! そういう事ならまあ、仕方ないというか、うん。俺重かったよな、ごめんな」  深々と頭を下げる夕に利人はあたふたと両手を横に振って夕を元気づけようとする。夕は伏せられた瞳の先で利人の靴の爪先、ふくらはぎ、太腿、腰と舐めるように視線を上げていく。 「いいえ、とんでもない。くっつけて俺は嬉し、いえ利人さんが理解してくださって良かったです」  ぱっと安心したように微笑む夕を利人は憎めず肩を下ろす。  言葉巧みに丸め込まれている事に気づいていない利人を夕はつけ耳と片眼鏡を外しながらにこにこと見下ろした。 「それで、火傷の具合はどうですか?」  夕の言葉を受け、利人は氷嚢を当てていた腕やびしょ濡れの服を捲り上げて自分の身体を確かめる。 「ん、大丈夫そう。これありがとな、お蔭で助かった」  利人は氷嚢をひょいと掲げてみせる。けれど利人の腹や腕は赤らんでいて、夕は心配そうに眉を顰めた。 「本当に大丈夫ですか? 痕になりませんか? 何か塗った方が良いんじゃ……」 「大袈裟だなあ、それ程のもんじゃないよ。すぐ消えるって。それより着替えたいから体育着貸りていい?」  どうぞ、と夕は肩に掛けていたバッグの中から体育着を取り出し利人に渡す。  利人はありがとうと言いながら受け取り、そのまま目の前で着替え始めた。 「利人さん待って、ここで着替えるんですか?」 「え? そうだけど」  大きな窓の外は校舎の裏側になっていて表のような賑やかさはないが人はちらほらと通っている。  ぱっとすぐに済ます気なら本人は隠れる程ではないと思っているのかもしれないが、利人は夕の性的対象だ。目の前で着替えられるだけでも刺激的なのに人目に晒させるなんて問題外だ。  せめて物陰で着替えてくれないものかと辺りを見渡すが、利人は気にする事なくどんどん服を脱いでいく。  仕方なく急いでカーテンを閉めるが、薄暗くなった室内にはっと危機感を抱いた。  狭い部屋の中で二人きり。背後からは利人が服を脱ぐ音。白いカーテンで覆われたベッドまである。 (心臓に悪い)  狭い部屋の中で二人きりでいつでも押し倒せる状況なんていつもの事だ。触りたい、キスしたい、もっと先の事だって妄想しない訳がない。  けれど無理矢理自分のものにするような真似だけは絶対にしないと決めていたから堪えられた。余計な事は考えないよう勉強に集中して、変な気を起こさないようにベッドにカバーまで掛けて。  けれど最近、強く律していた筈の心が揺らいでいる。いけないと分かっているのに、間違いを犯してしまいそうで怖い。  日を追う毎に愛しさが増すのだ。『好き』という感情が溢れて止まらない。どんどん好きになってしまう。  そして不安になる。  告白は一種の牽制でもあった。伝えれば、否が応でも意識してくれる。  けれど利人はまだ、分かっていない。自分を好きだと言った相手が目の前にいるのに平気で肌を晒す。  その無防備さが、時折憎らしい。 「おーい」  耳元で声がしてぴくりと肩を揺らす。振り返ると、丈を持て余しだぼついた体育着を着た利人が立っていた。 「サンキュな」 「……いえ」  利人は染みが気になるのか脱いだ服を水道で洗い固く絞る。  襟と髪の間から覗く首筋。  身体に合っていない大きな体育着。  捲り上げた先から伸びる健康的な腕。 カーテンの隙間から漏れた光に照らされた薄い赤。 濡れた手から伝いぽたぽたと滴り落ちる水滴。  そのひとつひとつに欲情しては咽喉を嗄らす。 「……夕?」 「振り向かないで」  利人の後ろに立った夕はそっと伸ばした右手を利人の右腕に添える。  しっとりした肌を撫でるように掌を包み込み引き寄せた。自然と利人の顔が傾く。 (焼ける)  手首から手の甲に掛け、薄らと肌を染める赤にさえ嫉妬する。  この人の肌を染めるのも傷を残すのも自分だけでありたいなんて、そんな事を思っている訳ではない。それは傲慢だ。この人の身体は、誰のものにもならない。  けれど思うのだ。自分はこの人の心にどれだけの影響を与えられるのか。  彼の心の中に、少しでも『白岡夕』という存在はいるのか。 「痕、薄くなりましたね」  引き寄せた指先に口づけをするように唇を近づける。けれど触れる寸前でその手を離した。  薄暗い部屋の中、遠い賑わいを聞きながらここだけが切り取られたかのように静かだ。ぴちょん、ぴちょんと水道から水滴が落ちる。  静かに息を吐くと、利人の腕が上がったままな事に気づいて睫毛を持ち上げた。利人は夕が手を離した時のまま、顔だけ背けている。  けれど淡い光の中瞳に映るその頬はふっくらと赤く染まっていて。 「利人さん?」 「あ、いや、はは。だから言っただろ、すぐ治るって」  利人はそこでやっとぎこちなく腕を下ろしわざとらしく服を絞り直す。  どくんどくんと心臓が鼓動を鳴らす。  熱を持った頬に視線が奪われる。  その鮮やかな色に呼吸すら忘れる。  そうしてその向こうの瞳が熱っぽく揺れていたのを、夕は見逃さなかった。 (期待し過ぎては、駄目だ)  ごくりと唾を飲み込む。  今はほんの一欠けらだけかもしれない。ただの勘違いかもしれない。  それでも、そこに同じ気持ちが芽生えている可能性は。

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