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70 男同士の話
もう今更だ。
それでも、自分の目で、耳でしっかりと確かめなければならない。
そう、思った。
夕は掌に汗を握りながら古い廊下を軋ませて歩く。
薄暗い家の中とある部屋の前で立ち止まると、襖に足先を向けその向こうへ意識を向けた。
耳を澄ますと、微かに人の気配。
「父さん」
襖の向こうにいるであろう男に向けて発せられたそれは少し擦れている。
けれど返事はない。
「父さん、夕です。起きているなら、話をさせていただけませんか」
今度はもう少し大きい声ではっきりと。すると、襖の向こうから人が動いたような気配がした。
「珍しいね、夕がそんな事を言ってくるなんて」
眠っていたのか、疲れているのか。その声に覇気はない。
父が退院してから約一か月。不在がちだった以前とは違いずっと家にいるのだから本来なら毎日でも顔を合わすのが自然だろう。
けれど今日、夕は久々に父の声を聞いた。
夕が学校へ行っている間の事は分からない。けれど少なくとも夕が家にいる間、父は居間など人目につくところにはおらず自分の書斎兼寝室に籠っていた。食事も部屋で取っている為以前よりも見なくなった位だ。
退院して間もない頃は心配で時々声を掛ける事もあった。
けれど父は独りでいる事を好む。
夕も、この部屋の前から遠ざかるようになった。
「何の話かな」
その問い掛けにぎゅうと拳を握りしめる。
「本当の事を聞きたいんです」
これまで父と正面からぶつかった事はない。
けれど今聞かなければ、確かめなければきっと自分は迷ったままだ。
だから真実を知りたかった。
「父さんと雀谷利人さんとの間には教授と教え子以上の関係があった事、俺は知っています。父さん、どうか本当の事を教えていただけませんか? 父さんは利人さんの事、どう思っているんですか」
閉ざされた襖は冷たく、静けさが辺りを包む。
自分の心臓の音だけが聞こえるようだった。
「何を言ってくるのかと思えば……。本当の事も何も、夕。お前は病室での僕と彼の話を聞いていたんだろう。これ以上僕に何を求めているのかな」
父の声に戸惑いの色は微塵も感じられない。襖越しでも感じる威圧感に夕はきゅっと唇を咬んだ。
けれどそう簡単に引き下がってはここに来た意味がない。
「聞いていました。けど、父さんは本当に利人さんを利用していただけなんですか? 本心ではあの人に惹かれていたんじゃないんですか……?」
父の考えている事は分からない。
けれど、あそこで利人を冷たく突き放すように言ったあの言葉に何故か違和感を覚えた。
「しつこいね。仮にそうだとしても、それを知ってお前に何のメリットがあると言うんだい? 父親が母親以外の誰かを愛しているなんて、普通は嫌だろうに」
普通。
その言葉で利人と出会った頃の事を思い出した。疎ましく、嫌悪ばかりで口先で沢山傷つけた事。母が可哀想だと思っていた事。
なのに惹かれた。
抗っても拒んでもそれに意味はない。
どうしようもなく、恋い焦がれてしまったのだから。
「メリットは、ないかもしれません。俺は利人さんが好きです。だから、貴方を恨みもしたし今でも許せない気持ちは消えていない」
外で男をつくっているふしだらでだらしない父は恋敵へと変わった。
多分その時、今までで一番父を意識した。
例えそれが反抗心でも、父が考えている事に初めて興味を示したのだ。
「でも、だからこそ本当の気持ちが知りたい。息子ではなく、一人の男として。だから――逃げないでください」
そう言い放ち、深く息を吐く。
心臓が早鐘を打つ。それは両親の前でも己を律し『良い子』でいた夕にとってとても珍しく勇気のいる言葉だった。
だから驚いたのだろう。
「参ったなあ……」
暫くの間の後、感嘆の声が聞こえる。
「まだ子供だと思っていたけれど、もう立派に一人前の男になったんだね、夕」
はっとして顔を上げる。
胸に小さな火が灯った。
「入りなさい」
凛とした声が襖の向こうから聞こえた。
ごくりと唾を飲み込む。
「男同士の話をしよう」
震えそうな指先を引手に掛け、返事と共に指に力を入れる。
この先待ち構えている答えに救いはあるのかは分からない。どちらへ転がっても悪夢でしかないのかもしれない。
それでも、後悔はしない。
ただ知りたいのだ。これまで父を知ろうとしなかった。ただ憶測だけでわだかまりを残したくない。恨んでいたくない。
だからせめて、男としての彼を分かりたいと思った。
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