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71 初降る雪〈1〉
寒さけぶる十二月のその日、例年より遅めの初雪が降った。
利人は自転車を漕ぎながら灰色の空を見上げる。大粒の雪はひらひらと舞いながら利人の鼻先に落ち透明な雫へと変わった。
「積もるかなあ」
ぶる、と肩を震わせながら前を向き直る。
見慣れた屋敷の前で自転車を止めると、瓦屋根の門を潜って玄関のインターフォンを鳴らした。
「あれ」
ピンポン、ともう一度鳴らすと頭上からガラリと音がする。見上げると夕が窓から顔を出していた。
「利人さんすみません、鍵開いてるので入っちゃってください」
「おー、分かった」
夕に手を振るとその言葉通り鍵の掛かっていない戸をガラガラと引く。
薄暗い屋敷の中を迷いのない足取りで突き進む。けれど階段を上ろうとしたところで大きな物音が聞こえて足を止めた。
高いところから盛大に物が落ちたような、そんな音だった。足は自然と音のした方へ向かい、続いて聞こえる物音を頼りに部屋を突き止める。
もしかして、――もしかして白岡教授かもしれない。
そんな期待に身体が強張る。
毎週この家に通ってはいても白岡と顔を合わせた事はない。
本当に家にいるのか、実は入院しているのではないか、実はとうに元気になって大学に戻っているのではないか――そう思えてしまう程この家に白岡の存在感はない。
「すみません、お邪魔しています雀谷です。あの、すごい音が聞こえましたが大丈夫ですか?」
襖越しに声を掛けると、返事はないもののかたりと中から音がする。
やはりこの中に誰かいる。
勝手に襖を開けるのは憚られるけれど、もしもという場合もある。
それに、本当に白岡本人がそこにいるのだとしたら。
「入りますよ……?」
ゆっくりと引手に手を伸ばす。
けれど引手に手が届く前に遠くから名前を呼ばれて思わず後ずさった。
「利人さん? どこですか?」
いつまでも来ない利人を心配して下りて来たのか、夕の声が近づいて来る。戻らなくてはと思うのに、足が床に縫い止められたかのように動かない。
そうして焦っているうちに廊下の先から夕が姿を現した。夕はほっとした顔をした後、その顔から表情を消す。
「どうかしましたか」
そう言いながら近づいてきた夕はちらりと利人の目の前にある部屋へ視線を流した。
「いや、大きな物音がしたから気になって」
「ああ……そういえば何か聞こえましたね。中、見たんですか?」
その声は心なしか咎めるように冷たい。利人はぶんぶんと首を横に振る。
「そうですか。利人さんは俺の部屋に行っていてください。俺もすぐ戻りますので」
「……分かった」
有無を言わせない言葉に利人は大人しく頷いた。
夕の隣を通り廊下を曲がる。その間際振り返ると夕が襖の引手に手を掛けているのが見えた。
父さん、と。
その口がそう紡いだのを、微かに聞いた。
***
お待たせしました、と夕が部屋に入る。
「そういえば問題集で分からないところがあって。英語なんですけど」
「さっき中にいたの、白岡教授?」
勉強机の棚から問題集を取り出しぱらぱらと開く夕の背中へ話しかけると、ページを捲る手が止まった。
「そうですよ」
ごく、と唾を飲み込む。
やっぱり、勘違いではなかった。
「だ、大丈夫だったか? 頭打ったりしてなかったかな」
「安心してください。物が落ちただけで、本人に怪我はありませんでしたから」
夕は問題集を机の上に置くと利人と視線の高さを合わせるようにテーブル越しに座った。
「利人さん、今後あの部屋には近づかないでください。何かあったら必ず俺を呼んで」
その瞳は真剣そのもので、だからこそ胸に針が刺さったようにつきんと痛む。
「どうして?」
分かったと、頷く事も出来た。安静にしなければならないのならば静かな環境は重要だろう。病人のいる部屋に近づくなと言われても何もおかしいとは思わない。
けれど、確かな理由を聞きたくなった。
あの時、たったの一言も返事はなかった。
喋れない程具合が良くないのか。
それとも、自分だから、話したくないのか。
「利人さん……そんな悲しそうな顔をしないで」
夕はそう言うと切なげに目を細める。
「父は一人でいたいんだそうです。元々書斎に篭って研究に没頭するのが好きな人ですから、俺もあまり近づかないんですよ」
「……そう、か」
利人は睫毛を伏せ、緩く膝の上で拳をつくる。
少しだけほっとするものの、胸の中のしこりは消えない。
(もう、随分白岡教授に会ってない)
大学で会わなくてもここに通っていればいつか顔を見る事位あるだろうと楽観的に思っていた。
けれどその期待は裏切られ続け、折角の機会も失った。
顔を見ないと、声を聞かないと不安になる。
白岡は少食だった。一緒に食事をしていても残す事はよくあったし、雀谷君はよく食べてくれて気持ちが良いねなんて言われもした。
ちゃんと食べているのだろうか。
元気にしているだろうか。
さっき、もう少し早くあそこへ向かっていたら会えたのだろうか。
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