77 / 195

72 初降る雪〈2〉

――さん、利人さん」  はっとして顔を上げると、すぐ目の前に夕が近づいている事に気づいて驚いた。 「あ、ごめん、ぼーっとしてた。何?」  ふうと胸を撫で下ろし夕の顔を見ると、夕は眉を軽く寄せてじっと見つめてくる。 「ねえ、利人さん」  夕は不安が入り混じったような思い詰めた顔を向ける。  どこかで見た顔だと思った。記憶の隅で鮮やかな花火が一瞬頭を過ぎる。 「まだ俺を好きでなくてもいいです。俺と付き合ってくれませんか」  思いがけないその言葉に利人は目を見開く。  黒い瞳は真っ直ぐに利人を見つめていた。 「……っ夕、待ってくれ。それは、駄目だ」 「何が? 何が、駄目なんですか?」 「まだ……お前の事、受け止められる自信ない。中途半端に付き合って傷つけたくない」  かつて、告白されて付き合った女の子がいた。  でも結局上手くいかなかった。彼女の事がちゃんと好きだったら、きっと未来はもっとましだったのかもしれない。  だから軽い気持ちで応えるのはいけないと思ったのだ。 「それでもいい。今は俺に気持ちがなくても、これから近づく可能性はあるでしょう? それとも、他に躊躇う理由があるんですか?」 「他に……?」  他の理由って、何だ。  考え込んでいると、夕は視線を逸らして重く口を開く。 「例えば――他に好きな人が、いるとか」  好きな人。  予想外の言葉に利人は面食らった。 「そんな人いる訳ないだろ」  好きな人なんてもうずっといない。むしろ自分は誰かに恋をした事があっただろうか。  子供の頃いいなと思った女の子がいた気がする。中学生だった頃には初めて告白されてその子を好きになったような気にもなった。  でもそれらは、本当に恋と呼べるものだったのだろうか。  分からない。  恋とは一体、何なのだろう。 「じゃあ、良いじゃないですか。試しに付き合ってみましょう。俺がどんな風に利人さんを好きなのか、ゆっくり教えてあげます」  野生の動物が獲物を狙うような冷静さと獰猛さを滲ませた瞳に射抜かれる。  鼓動が速くなる。 「ゆ、う」  息が出来ない。  その唇に夕のそれが近づく。 「キス、しますよ」 「ぁ……」  拒む事も出来ず固まっていると、了承と受け取ったのか柔らかな唇が重なった。 「ふ、」  唇を食むように愛撫され舌で上唇をなぞられる。ぴくりと反応して少しだけ開いた唇にぬるりと舌が割って入った。 「ま、待って」  ぐいと夕の肩を押すと簡単に唇は離れた。口に掌を当て、はあ、と上がった息を整える。 「嫌でした?」 「そういう事じゃなくて、……分かったから、勘弁してくれ」 「本当に分かってますか?」  夕に覗き込まれうっと上半身を仰け反る。  夕の顔をまともに見られなくて気まずげにそっぽを向いた。 「じゃあ聞くけど、お前は俺のどこが良いんだ? 男だし、女らしい要素もない。好かれる理由が見当たらない」 「それは俺も思いました」 「おい」  何なんだよと顔を上げると、落ち着いた夕の顔が目に入る。  冗談を言うのでも熱弁を振るう様子でもなく、ただ静かに視線を落とす。 「でも救われたから。利人さんのお蔭で、俺は随分心が軽くなったんです。そうしたらいつの間にか惹かれてた。貴方の事が気になって仕方なくて、些細な事で一喜一憂して。ここが、どうしようもなく苦しいんです」  夕はそう言いながら自分の胸元をぎゅうと握り締める。  伏せられた瞳はすうと真っ直ぐ利人を見つめた。 「どうして、とか。好きになってしまえばそんなのどうでもいいんですよ。俺はただ、貴方が好きなんです。貴方しか要らない。貴方が、欲しいんです」  もう何度その言葉を告げられただろう。  言葉にならなくて、利人は夕の肩に火照った額を預ける。  ありがとう、と辛うじて小さく呟くと背中に腕を回され抱き締められた。  その温かさにまた頭が眩む。  まるで熱にでも侵されているようだ。  けれど、それに流されて頷くには、まだ、早い。 「夕」  頭を起こし顔を引き締める。突然姿勢を正す利人に夕も真剣な表情を浮かべる。 「俺はお前の家庭教師だ。お前が目標を達成出来るよう手伝う義務がある。それは分かるな」 「はい」  素直に頷く夕に利人もうんと頷く。 「進級試験まであと二か月。お前の目指している先を思えば余所見をしている場合じゃない。だから、試験が終わるまでは待っていてほしい」  利人の厳しい言葉に夕は僅かに顔を険しくさせるものの、もっともな言葉であるだけに渋々分かりましたと呟いた。  利人は固く握りしめられた夕の拳にそっと手を重ねた。驚いたのか、弾かれたように夕が顔を上げる。 「逃げているように見えるかもしれない。でも、お前との事ちゃんと考えてるから。今は勉強の事だけ考えろ」  待っていてほしいと言った意味を、夕は分かっただろうか。  気づいていないかもしれない。それでも不安そうに揺れていた顔は、すっかりいつもの、いやそれ以上に大人びた顔つきへと変わっていった。 (全部終わったらけじめはつける。きっとお前の気持ちに応えるから)  気持ちは、もう固まりつつあった。  この気持ちがそれなのかはまだ分からない。  不安定で甘酸っぱく切ないこれはまだ名前を持たない。  けれど夕の笑った顔が見たいと思った。  夕を悲しませたくないと、そう思った。

ともだちにシェアしよう!