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73 嘘

 刻々と時は流れる。  雪はしんしんと降り続け、雪化粧した景色は白く、空が曇っていても雪の白さで明るく見えた。  夕は勉強を怠らず、以前より身の入った自分の助けとなるべく利人も出来る限りの事をしてくれた。  二人の間に生徒と教師以外の触れ合いはない。思いがけず間近で視線が絡んで動揺しても次の瞬間には打ち消す。夕から必要以上に近づく事はなくなったし、当然その逆もない。  夕の心を支配していた不安はなくなった訳ではない。けれどあの時のどうしようもない程の焦りは落ち着いていた。利人の言葉を受けてというのもあるだろうが、それよりも勉強に集中する事で意識を散らしているところが大きいのかもしれない。  今焦ったって試験を駄目にしてしまえば本末転倒だ。感情的になるな。冷静に物事に対処してきた本来の自分を思い出せ。お前は受験生も同然だろうと己を奮い立たす。  そうしてあっという間に年が明け、新年を迎えた。  年中忙しく飛び回っている母だが、元日だけは彼女お手製のお節料理で新年を迎えるのが恒例となっている。  着物に袖を通し、お重に敷き詰められた煌びやかなご馳走を頂く前にまず神棚にご挨拶。ご先祖にも挨拶を済ませ、やっとテーブルにつく。  普段自分の部屋で食事を取っている父もこの日ばかりはテーブルの上座に腰を据えている。夕は膝をつき居住まいを正すと頭を下げた。 「父さん、明けましておめでとうございます」  おめでとう、と父の柔らかな声が耳元に届く。顔を上げると、夕は少しだけ顔の筋肉を緩めた。 「改めまして、明けましておめでとう。今年もよろしくお願いします」  母もテーブルにつくと、父の挨拶に次いで夕と母も口を揃えて挨拶を述べる。お猪口に注がれた日本酒で乾杯するが、夕は未成年だから形だけだ。米所新潟の美味しい地酒だというのに勿体ない。  父もまた酒を止められている為形だけの筈なのだが、その口元にはお猪口が運ばれている。 「父さん」 「いいの、いいの」  咎める夕に父はひらひらと掌を振ってみせる。  父が箸に手を伸ばして初めて夕と母も箸を持つ。お雑煮は家庭や地域によって味も具材も全く異なると言うが母のつくるお雑煮は具沢山で華やかだ。細かく刻まれた野菜や車麩、鮭にいくら。優しい味のする汁を口に含むと身体の芯が温まる。  疲れが溜まっていたのかもしれない。久し振りに身体が安らぐのを感じた。  父も母も笑っている。  夕は家族というものの繋がりの温かさをぼんやりと感じていた。それはきっと今だから実感出来た事だと、夕は知っている。    ***       一月末日。  その日は珍しく雨がしとしとと降っていて、踏み固められた雪はぐじゃぐじゃと掻き混ぜられ溶け出している。  利人は朝から落ち着きがなかった。いつもより早く目が覚め、自分の体温で温まった布団の中でじっとしているのも堪え難くなり白い息を吐きながらそそくさと愛用の半纏に包まれる。  今日は附属中学校の進級試験日だ。エスカレーター式の学校の為特別な勉強をせずとも大概進級は出来る。けれど附属高校はコースがあり、夕が目指す特進科に入るには相応の努力が必要だった。  そうして夕は十二分にその努力を積んできた。夕ならきっと大丈夫だろうと思ってはいてもはらはらとした緊張は拭えない。  雪と泥水の混ざった道を歩きながら大学へ向かっている時も講義を受けている最中も利人はどこか上の空で羽月に呆れられる有様だ。  するとその時、スマートフォンが揺れた。すぐに止むかと思われたそれは繰り返し振動していて、それがメールではなく電話だと気づく。  膝に掛けていたダッフルコートのポケットからこっそりとスマートフォンの画面を覗き見ると、すぐさまコートを椅子に置いて足早に講義室を出た。驚きのまま応答ボタンを押してスマートフォンを耳に押し当てる。 「夕? どうかしたか?」  出来るだけ、出来るだけ声を抑えた。動揺が伝わらないよう心を落ち着かせる。夕はまだ試験中の筈だ。休憩時間なのかもしれないが、こんな時に電話を寄越すなんて只事ではない。電話口では、利人さんと囁くような声が聞こえた。 『俺、利人さんに嘘を吐いていました』  夕の声に焦りはない。妙に落ち着いているその声にじわりと不安を煽られる。  夕は、何を言おうとしているのか。 『父が倒れて病院に運ばれた時、大した事はないと言いましたがあれは嘘だったんです』 「ゆう……? 何を、言って」  じわりと悪寒が全身を巡っていく。  身体の末端から血の気が引いていくのが分かった。感覚が薄れていく。その先に続くであろう言葉を全身が拒絶する。  嫌だ、その先は聞きたくない。  違う。だって、だって笑っていた。来てくれてありがとうと、そして、そして――ごめんねと、言われた。  すっと心臓が凍り付く。  早く治して復帰するからね、とも。  またね、とすら言われていない。  その事に気づいてしまった。 「早朝に父が亡くなりました」  その声はやはり酷く落ち着いていて、空虚で。  利人は言葉を紡ぐ事を知らないように、ただ立ち尽くしていた。

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