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74 止まない雨〈1〉
電話の後夕の下へ向かおうとしたが、準備があるからと実際に会えたのは通夜の時だった。
あの人が死んだなんて信じられない――そう思いながらも、そう考えたくなかっただけで全く想定していなかった訳じゃない。
それでも飾られた白岡の写真を前にした時、言いえぬ衝動と共に身体の力が抜けていくのを感じた。
(ああ、本当に)
ふらりと身体がよろけるが踏ん張って何とか堪える。冷気がスーツの隙間から入り込んで肌が凍える。
重い空気は幾度となく白く染まる。寒さで身体を痛めつけていないと足元から崩れ落ちてしまいそうな、そんな錯覚を覚えた。
「利人、大丈夫? 顔色悪いじゃない」
羽月が心配そうに顔を覗き込んで来る。平気、と答えて利人は薄く笑った。
「俺、思ったより白岡教授の事好きだったみたい」
ぽつりと独り言のような小ささで呟くと、羽月は利人を励ますようにそうと頷く。
「面白い人だったよね。利人、先生に気に入られてたでしょ」
「そんな事……」
ないよ、と続けようとした言葉は苦笑いに紛れて消える。
(――あ、れ)
じわ、じわりと不思議な感覚に襲われる。
パズルのピースがうまく嵌っていないような微かな居心地の悪さを感じた。
落ち着かなくて、息苦しい。
脳裏に蘇るのは飄々と微笑んでいる白岡の姿。
「雀谷さん」
声を掛けられはっとして顔を上げると椿が目の前にいた。
「来てくださってありがとう」
小さな唇を開く椿は穏やかだが毅然としていて背中にすっと芯が通っているように見えた。その姿には夫に先立たれ途方に暮れた様子は見受けられない。白岡家の当主たる逞しさがそこにはあった。
利人も姿勢を正し挨拶を述べる。しっかりしなくては。一番辛いのは家族だ。利人は意識を切り替えてちらりと視線を流す。
夕もまた気丈に振る舞っていた。挨拶に来る人々に頭を下げ一言二言話す様は大人びている。まだ若いのにしっかりしている、と瞳に涙を滲ませた人の声が聞こえた。
悲しみを押し殺し、忙しさに身を置く事で堪えているのかもしれない。彼の心境を思うと胸が痛かった。
夕、と声を掛けると闇のように深い瞳が切なげに細められる。
(俺が、支えなくちゃ)
先程までの不穏な空気を振り払うように使命感に駆られた。
ぎゅうと拳をきつく握り締める。
一体自分は彼の為に何をしてやれるだろう。
彼の為に、何が出来るだろうか。
***
あまり寝付けられないまま翌日の葬式と告別式を終えると家に帰った後スーツも脱がずにぼんやりとしていた。夕からメールが来たのは夕飯でもつくろうかと腰を上げた時だ。
『会いたいです』
それだけ画面に記されたスマートフォンを握り締めて利人はすぐに家を出た。
ぱらぱらと雨が降る中傘を差して小走りにバス停へ向かう。この時期当てにならない時刻表を念の為確認して利人は身を縮めながらバスが来るのを待った。
雨は次第に強くなる。ばつばつと強く傘を打ちつけ辺りはあっという間に暗くなっていく。
「……寒い」
ぶる、と震えながら鼻先をマフラーに押し当てた。今夜は台風が来るらしい。きっとこれからもっと荒れるだろう。
二十分後やってきたバスは利人以外数人乗っているだけだった。一人二人と降りていき最後には利人だけになる。
外は大雨で薄ら暗い。空からはごろごろと唸り声が聞こえ、不安や焦りが音もなく忍び寄る。
夏の墓参りの夜もこんな日だった。
滝のような雨。雷。
全身を蝕むような快楽を初めて知った夜。
胸が、少し苦しい。痛い。
バスを降りる頃には雨はひと時の休みとばかりにさらさらとした小雨に変わっていた。
白岡家の屋敷はしんと静まり返っている。門を潜り玄関を目指しながら何気なく庭先に目をやると、夕の姿を見つけて眉を顰めた。
「夕……!」
しとしとと雨が降る中、夕は傘も差さずに立ち尽くしている。
ばしゃりと水溜りを踏むのも構わず駆け寄ると夕の青白い顔がゆっくりと振り返る。夕を包む異様な空気に思わず息を呑んだ。
「利人さん」
凛とした声が響く。
その顔が恐ろしい程美しく見えてぞくりとした。元々端正な顔立ちをしているが、冷えた肌と氷のような表情が人間離れして見えるせいだろうか。
人形のようなその顔に不安が押し寄せる。
「夕、風邪引く……」
傘を差し出した時だった。
ぴかりと空が光り、驚いて思わず傘を掴んでいた手が緩む。
落ちていく傘に視線を取られていると強く腕を引かれいつの間にかきつく抱き締められていた。
その腕の強さに比例するように雨が激しく降り注ぐ。
利人さん、と耳元で囁く声は震えていた。
「お願いです。抱かせて、くれませんか」
冷たい身体に反してその声は酷く熱っぽい。
懇願するその声に利人は目を細めた。夕がそう願うより先に、利人は夕とそうなる事をもう許している。
夕が望むのなら、夕が欲してくれるのなら真正面から向き合おう。そう心に決めて夕の試験日の朝を迎えた。
その気持ちに迷いはないと思っていた。――夕から電話を受けるまでは。
いいよ、そう答えようと開いた唇は言葉を紡げずに行き場を失う。
「あ……」
ほろほろと殻が崩れていくように、これまで見えていなかったその柔らかな場所が少しずつ顔を覗かせていく。
ひとつ、ふたつと欠片が剥がれ落ちる。
夕になら――そう思った筈なのに、今、この心は夕の懇願を拒んでしまった。
嫌だと、思ってしまった。
それは何故か。
どうして今になって気づくのだろう。
夕の気持ちに応えられない本当の理由。
心のどこかで夕の好意に頷けずにいたのは、それは、別の人間を心に住まわせていたからではないのか。
無意識に、自分の気づかないうちに。
(嘘だ……)
どうして今頃。
戸惑う心はそれを拒絶する。
きっと何かの勘違いだ。そうに違いない。
そう振り払おうとしても心臓は落ち着かない。もう、何も分からない。
首を横に振る利人を、夕はそれでも絶対に離さないと言わんばかりに強い瞳で射抜く。
「どうして俺なんだ、夕。何で、俺は……」
咬みつくように唇を塞がれ息が詰まる。
冷たい雨は合わさった唇に触れ熱に変わる。嵐のような激しさに飲み込まれる。
拒むように夕の身体を押していた手は次第に縋りつくように弱く握られる。
もう疲れ果てていた。余裕なんてなかった。
苦しくて堪らなくて、一度味わった目の前の甘い蜜を拒められない。
ごめん。ごめん、夕。
心の中で何度も謝りながら夕に与えられる痛い程の熱い抱擁と口づけに身を委ねた。
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