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75.5 父の病

「癌」  夕がその二文字の言葉を復唱すると、そうです、と母は神妙な顔つきで頷いた。  父は末期癌だった。その癌は症状が出にくく、初期では殆ど気づかれないらしい。父もその通りに自覚症状なく病気が進行していた。  夕がそれを聞かされたのは父が大学で倒れて病院へ搬送された時だ。倒れる程に病気が進行してやっと夕にも真実を告げられた。  幸か不幸か、父は定期健診を受けた際に自らが発症している事を知っていたらしい。その時点でもう手術が出来る状態ではない事、命が長くない事も知っていた。 「父さんは助からないんですか」 「ええ。もう手の施しようがないの。あと数か月か、もって半年か」  母はいつ父の容体が悪化してもおかしくないとも言った。 「この事は他言無用でお願いします。一部の人間は知っていますが、私が良いと言った相手以外には内密にしてください。特に貴方に気をつけてもらいたいのは、雀谷利人さん」 「利人さん?」  顔を顰める夕に母は頷く。 「勿論雀谷さんだけではないわ。あまり人に知られたくないと霞さんが言っていたの。だから、その通りにしましょう。お願いね」  何故利人に知らせてはいけないのか、当時は父の心を知る事はなかった。ただ父が倒れた時に居合わせた利人は余計父の身体を心配していたからきっと彼を安心させたかったのかもしれない。――そう思っていたし、結局は頼まれなくても利人には言えなかったかもしれない。病院での利人と父のやりとりを聞いて、一つの可能性に気づいてしまったのだ。 (もしかしたら利人さんは父さんの事が好きなのかもしれない)  これまで夕がそう疑っても利人は否定してきたし、その言葉に嘘はないように見えた。でも、あの時の利人はまるで失恋して傷ついているかのように見えたのだ。  もし本当に利人が父を想っているならこれまでの二人の関係だって辻褄が合う。恋心ゆえに身体を許していたのなら理解出来る。  一時は浮かれもした。それでも、夕の首は次第に締まっていく。  父の事情を知っている周藤が様子を見に来た時、聞いた事があった。もし好きな人が死んでしまったら、その人の事を忘れられますか、と。  無理だな、と周藤はきっぱりと言い放った。 「死なれたら忘れられなくなるし、忘れてはいけない気持ちになるらしい。思い出が深ければ深い程死人に心を縛られるのさ」  それはナイフで心臓を切り裂かれるように痛烈に夕の心に響いた。  不安。焦り。そして罪悪感。  父が明日にも死ぬかもしれないというのに、なんて薄情なのだろうと思った。実際、父が退院して家の書斎に篭っている間その実感はあまりなかった。  けれどそれもそうだろう。変わり果てた父の姿を見ていなかったのだから。  面と向かって父と話し、利人に焦りをぶつけてからは少しずつ父に歩み寄るようになった。  彼が一歩ずつ死へと向かっているのを感じながら、彼の生涯を見届けた。  後悔はなかったと思う。  最後の最後に、父と本気でぶつかった。きちんと向き合えた。父の言葉を聞けた。  父が死んで、素直に悲しいと思えた。

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