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76 止まない雨〈3〉*

 一番やってはならないと思っていた事をしている。  悲しくて、苦しくて、会いたくて堪らなくて。  そうして利人の顔を見たら、もう感情が溢れて止まらなかった。  気がつけば、抱かせてくれと懇願していた。利人を抱き締めるだけでは足りない。今すぐ彼の肌に触れて、すべてを暴いて、不安定な心を満たしたくて。  自暴自棄になっていたのかもしれない。  その時利人が強く拒んでいれば、多分まだ止められた。けれど彼は受け入れてくれた。その目には夕が父を失った悲しみでぼろぼろになっていると映ったのだろう。  きっと利人の心には亡き父が住んでいる。弱り切った彼は悲しみから逃げられる快楽に勝てない。  利人の優しく繊細な心につけ込んでいる事、そして彼が後に自身を責めるだろう事を分かっていながらこの衝動を抑える事は出来なかった。  これが最後かもしれない。次に会った時、利人が夕を完全に拒まない保障はどこにもない。  だから時間を掛けてゆっくりと利人の身体を貪った。悔いが残らないよう、利人の身体を五感に刻みつける。  そうして利人の様子が変わった時、憶測は確信へと変わった。 (やっぱり、そうなんだ)  静かに絶望した。そうして、ここまでして止めてもらえると思っているのかと思ったら笑えてきた。  先端を利人の後孔へ押し込むと、追い出そうと抵抗するのが分かった。けれど構わず腰を入れると利人の口から呻き声が上がる。 「嫌だ、止めてくれ! こんなっ、う、あぁっ」  苦しいのか、利人は苦悶の表情を浮かべる。 (きつい)  ぎちぎちと圧迫してきて千切れそうだ。慣れるのを待ちながら少しずつ腰を進める。  十分に解したと思っても男の身体はやはり女とは違う。けれど、だからと言って女の身体の方が良いかというとそうじゃない。  夕は興奮していた。利人の言葉に傷つきながら、欲望はどんどん高ぶっていく。  熱くて、きゅうきゅうと締められて絡みつく。  身体中の神経をすべて持っていかれるような心地良さに浸った。 「利人さん」  利人の萎えたそれをやわやわと揉みながら揺するとだんだん慣れてきたのか利人の表情が変わってきた。  利人は駄々を捏ねるように首を緩く横に振り、シーツを掴んで腰を引こうとする。  けれどそれを許す程の優しさは持ち合わせていない。腰を掴んで一層深く貫くと利人の身体がびくんと揺れた。 「や、やめ……やだよ、夕。嫌だ……」  利人の瞳からはほろほろと涙が零れた。 (もう、遅い)  傷つけたくなんかなかった。  守りたかった。  けれどもう、止まらない。止められない。 「ほらね、これで分かったでしょう」  夕の瞳から零れた小さな涙の粒は頬を伝って利人の腹の上に落ちる。 「好きでもない男に犯される気分はどうですか? 最悪でしょう、最低でしょう?」 「夕……」  利人はくしゃりと目を細める。  そんな目をしないでくれ。  そんな憐れむような目で、俺を見るな。 「でも、まだ終わらせてあげない。こんなんじゃ、まだ全然足らない」  利人さんもでしょう、と手の中の熱を握り込むと利人はぐっと顔を歪める。さっきまで小さく垂れていたそれは芯を持ち膨らみ始めていた。  卑猥な音と共に利人の声も徐々に乱れていく。諦めたのか、快楽に飲まれているのか、拒絶の言葉は次第に甘ったるい声へと変わっていく。 「ゆっ、ぅあ、あっ、ぁあ」  ずちゅ、ずちゅ、と利人の腰が揺れる度砂糖菓子のような声が溢れる。涙で滲んだ瞳もぐしゃぐしゃに歪んだ顔ももう夕の中の獣を引き出させる要素でしかない。可愛くて、愛おしくて、堪らなく欲情する。  やだ、と時折零れる言葉はもう反対の意味にしか聞こえない。それほど彼の言葉は甘い蜜のように蕩けていたし身体もすっかり馴染んでいた。  何度利人の中で達しただろう。  気を失うように意識を飛ばした彼の身体には暴力的なまでの無数の赤い痕。そして股の間からは情事の名残が溢れている。 「利人さん」  しっとりと湿った赤褐色の髪を掻き分け泣き腫らした目尻に触れる。  次に会う時は、もう触る事さえ許されないかもしれない。  会ってもらえるかどうかも、もう。 「ごめんなさい」  掻き消えそうな程の小さな声が落ちる。 「こんな事になるなら、好きになんてならなければ良かったのかな……」  心から利人を好きになった。  けれどきっと『好き』が重過ぎた。  好き過ぎて、一番大切な人を傷つけてしまった。 「好きだよ、利人さん」  愛おしい程の狂暴な想いを優しく唇に乗せると、瞳を閉じたままの利人の頬にぽたりと雫が落ちる。  雨は、まだ止まない。          ***  襖を開くと父はベッドに腰掛けて微笑んでいた。  夕は愕然とした。  痩せ細り目の落ち窪んだ父は人相すら変わっている。呆然としている夕に父は苦笑いを零した。 「夕、立ってないで座りなさい。さて、何から話そうか」  夕ははっとするとベッドの近くにある椅子を見つけて父の傍まで運び座る。  こんなに悪くなっているなんて、と思うのはおかしいのだろう。父は何も入院する程ではないから家にいるのではない。病院ではもう対処のしようがないから家に帰されているだけだ。  余命数か月という現実が夕に重くのし掛かる。 「夕、僕はね。若い頃親友に恋をして、そして死なせてしまったんだ」  ゆっくりと紡がれる言葉は気だるげでいつもの口振りからは程遠い。  話すのが辛いならと止めようとすると、父は平気だよと制した。 「僕はその日から恋というものをしなくなったんだよ。雀谷君はね、本当に少しだけだけど彼に似ていたんだ。だから、あの時の言葉は本当。つい釣られてしまった」  父は思い出を見つめるように遠くへ瞳を向ける。懐かしむように細められた瞳に色素の薄い睫毛の影が落ちる。 「もう誰かを好きになる気はなかったんだ。雀谷君にしても、そうだったんだよ」  ふう、と息を吐く父は瞳をこちらへ向けて困ったように眉を下げる。  それで悟った。 「好きに、なったんですか」  父はまた瞳を遠くへとやる。  その先に誰を思い浮かべているのか、言わなくても分かる。 「どうなのかな」  父は思考を手繰り寄せ考え込むように目を細める。 「でも、愛おしいと思ったよ」  そう紡ぐ父の瞳は穏やかで、深い慈しみで溢れていた。  宵闇が迫り部屋の中はどんどん暗くなっていく。  父の表情がよく見えなくなっても、その瞳だけは頭にこびりついて離れなかった。

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