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77 拝啓、君へ〈1〉
台風が去り町に平穏が戻る。
ふわふわと綿のような雪が舞っては再び地面を白く染めていく。
旧文学部棟はまもなく訪れる春期休暇に合せて改築工事の着工が始まる。利人は立ち入り禁止のロープが張られている旧棟を見上げ、止めていた足を再び動かした。
大学の近くには古びた喫茶店がある。こじんまりとしていて、扉を開くとちりんちりんと鈴が鳴る。少し隠れた場所に構えているこの店に入るのは初めてだ。がらんとした店内は昔ながらの喫茶店という表現がよく合う。
「いらっしゃい。ひとり?」
暖簾から顔を出した店主らしき初老の男は丸眼鏡越しにこちらを覗いてくる。
「待ち合わせなんですけど」
「ああ、周藤君の連れかね」
男はちらりと時計を見て髭の生えた顎を擦る。そうです、と利人が頷くとあっちだよと奥にある階段を指差した。
狭い階段を上ると座敷があり、足元には男物のブーツが一足だけ置かれている。靴を脱いで襖を開けると、畳部屋の中央に横長のテーブルがどっしりと置かれ周藤が片肘をついて座っていた。
「周藤先生」
「雀谷君、わざわざ呼び出して悪かったね」
いいえと首を横に振り、勧められるまま周藤の正面に座る。コートを脱いでいるうちに周藤手づからお茶を淹れてもらい恐縮する。
周藤とは一昨日の葬式で会った時に話があると言われて会う約束をしていた。けれど何の用件かは聞いていない。
「コーヒーでいい? 紅茶?」
「あ、じゃあコーヒーで」
ごほ、と咳をすると子機で注文している周藤の目が利人へと向かう。
「雀谷君も風邪なんだ?」
「少し。大した事はないんですけど、周藤先生もですか?」
白いマスクをつけている利人はあれと首を傾げる。滅多に体調を崩す事のない利人だが、流石に身体を冷やし過ぎたらしい。熱こそ出ていないが、咽喉が少し痛い。
すると周藤は笑って俺じゃないと手を振る。
「夕だよ。高熱が出て寝込んでてさ、自宅安静中」
「えっ」
利人はぎょっとした。そういえば夕は冬の冷たい雨をどれだけ浴びていたのか。その後も、髪も乾かさずに行為に耽った。
寝不足と行為による疲労が重なったせいか、あの後利人が目覚めたのはまだ薄ら暗い早朝だった。狭いベッドの中を並んで眠っていたようで、夕を起こさないよう音を立てないように抜け出してメモだけ残して黙って出て行った。
あの時、もしかしたら既に高熱に侵されていたのかもしれない。身体には触れず、背中を向けていた夕がまさかそんな状態だったなんて気づかなかった。
黙って行くのは気まずさもあった。けれど、せめてもっと注意すべきだったと今更ながらに悔やんだ。
「夕は大丈夫なんでしょうか。周藤先生は夕に会ったんですか? どうでしたか?」
「おいおい、そんな心配しなくたって平気だろ。俺が覗いた時には寝込んでたけど医者には見せたらしいし大人しくしてりゃ治る」
「そうですか……」
肩を落としているとお待たせしましたと言って店主の娘らしい女がコーヒーを並べる。
コーヒー独特の芳醇な香りが鼻腔を擽った。一緒に頼んだのかサービスなのか、小さなチーズタルトも並んでいる。
「これは」
「ここ、霞さんの馴染みの店で、俺もこっちに来た時にはよく二人でコーヒー飲みに来たもんだよ。霞さんはこのタルトが特に好きだったんだ」
周藤はそう言うとタルトにフォークを刺して口に運ぶ。
周藤の口から紡がれる白岡の名前にぴくりと眉が動いた。
(白岡教授が食べていたタルト)
じくりと心臓の内側が疼く。
フォークに手を伸ばせずにいると、周藤はコーヒーを一口含んだ後真剣な面持ちで口を開いた。
「ここから本題だ。雀谷君、俺の研究室に来ないか?」
「……え?」
思いがけない言葉に利人は面食らう。あまりにも突拍子がなくてそれがどういう意味なのかと困惑した。
「それはどういう……周藤先生のというと、東陵大学の考古学の、という事ですか?」
「そうだ。雀谷君は考古学にとても興味があるらしいね? その勉強を専門的に続けていく気はないか?」
どきりとした。日本思想史をやめて考古学へ移りたいなんて考えた事はないけれど、周藤の研究分野に強く惹かれているのは事実だ。
けれど何故周藤がそれを知っているのか。確かに考古学が面白いと周藤に話した事はあったが、彼の集中講義に感化されてのそんな言葉を口にする学生は他にも沢山いるだろう。わざわざ呼び出してまで誘われる事ではない。
「大変興味深いとは思います。けれど、急にそんな事を言われても……すみません、周藤先生が声を掛けてくださるなんて大変ありがたい話だと思います。けど俺は日本思想史を続けていくつもりですし、転入なんて」
「分かっているよ。戸惑うのも無理はない。けど、よく考えてほしいんだ。日本思想史が好きならこのまま続ければ良いが、当然新しい教授が就く。講義内容も変わってくるだろう。君は教授を選べない立場にあるから、もしかしたら今後不満を抱くようになるかもしれない。君は研究室に入る時、霞さんの教授としての人格や専門とする分野は見なかったか?」
「それは……」
テーブルの上に視線を落とす。利人は元から日本思想史を目指していた訳ではない。複数の研究室の中からそれを選んだのは『白岡ゼミ』に興味を抱いたからだ。
(白岡教授のいなくなったこの研究室で、俺はやりがいを失わずにいられるのかな)
途端に襲い来る不安。
これまでの自分は特別運が良かった。白岡秘蔵の珍しい本を読ませてもらったり、白岡に連れていかれた古書店や資料館で様々な出会いをしたりした。その度に興味深い話も聞いた。白岡がしていた研究の話や専門の話もそうでない話も。
白岡に導かれたそのすべては宝石のように輝いて見えたし、利人にとって価値ある時間となった。
だからだろうか、白岡との関わりがなくなってからは胸にぽっかりと穴が開いたように物足りなさを感じていた。その穴を埋めようと手を伸ばしたのが考古学だったのではないか。
周藤は徐に鞄の中から大判の封筒を取り出すとすっとテーブルの上に置く。
「うちの大学の文学部はニシ大よりでかいし考古学にも力を入れている。もし君が考古学をやりたいと思ってくれるのならうちにはそれを学ぶのに十分な環境が揃っているよ。それにこの姉妹校には転入制度があるから同じ学部内ならばわざわざ受験し直す必要もない。君なら推薦者も足りているから推薦状で通るし」
封筒を受け取り中身を取り出すとそれは東陵大学のパンフレットや転入手続きなどの資料だった。
「あっ」
ぽとりと細長い茶封筒が落ち手を伸ばす。それを拾い上げ表を見て息を止めた。
雀谷利人様――そう記された独特だが流麗な字を知っている。
手が震えた。
「開けてごらん」
利人が気づいた事に周藤も気づいているのだろう。戸惑い眉を寄せる利人に周藤は頷いて先を促した。
ぎこちない手つきで封筒の端を破くと中に白い紙が何枚か入っているのが見える。
利人は三つ折りに折られたそれを恐る恐る開いた。
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