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78 拝啓、君へ〈2〉
拝啓
朝夕の寒気が身に沁みる時節となりました。いかがお過ごしでしょうか。
君がこの手紙を読んでいる頃、この挨拶は季節外れになっているかもしれませんね。僕から君へ、最後に伝えたい事があり周藤にこの手紙を託す事にしました。
雀谷君。君は僕にとって感心な程真面目な良い研究生でした。学ぶ事に熱心で僕の退屈であろう話にも受け流さず真剣に耳を傾けてくれましたね。ああ、この子は本当に学問が好きなんだと思いました。そして、何て勿体ないのだろうと。君は日本思想史を好いてくれているでしょう。それを研究している者として、とても嬉しく思います。けれど君にはもっと別の未来もあるのではないですか。
君は様々な本を読んでいましたが、考古学関連の本を読んでいる時はとりわけ楽しそうでした。周藤の講義を受けた君を見て、僕は思ったのです。君はそちらの方が性に合っているのではないかと。周藤は学生の頃から研究熱心で優秀な後輩です。人柄が良く、面倒見も良い。彼の下へ行って間違いはないと思っています。
君の未来を決めるのは君自身です。君がこのまま日本思想史を続けていきたいと思うのならこの話は忘れて同封の書類は破り捨ててください。けれど少しでも気持ちが揺らぐのなら、今自分は何をしたいのかじっくり考えてみてください。
僕は君を応援しています。今までありがとう。
君の未来が幸福で満ち満ちていますように。
敬具
白岡霞
一緒に添えられていた紙は推薦書だった。西陵と東陵、両校の推薦者の欄には白岡と周藤のサインが入っている。
ほたほたと手紙に雫が染み込む。
一度流れ始めた涙は勢いを増す。壊れてしまったようにどんどん溢れて止まらない。
「うっ、あぁ」
白岡の字を見たのはいつ振りだろう。
もう彼の言葉を聞ける事はないと思っていた。
自分の事など気にも留めていないと思っていた。
「雀谷君……」
手紙を握り締めたまま蹲り泣きじゃくる利人を見て周藤は睫毛を伏せた。
***
あれから夕とは会っていない。
身体が心配で何度かメールを送ったが返信はなかった。試験までと言われていた家庭教師のアルバイトも正式に終わり、最後に白岡家に挨拶に行った時も夕の姿はなかった。
風邪はもう治っているらしい。これまで夕がメールを無視した事もない。
つまりはそういう事なのだろう。
机の上に積んでいた考古学の本を手に取りぱらぱらと開く。これまでの白岡の講義で使われたプリントもすべて出して目を通していく。
すると、とんとんと扉が叩かれ伊里乃が顔を出した。
「りー兄、お母さんが焼き芋買って来たって」
「分かった、すぐ行く」
さっと机の上をプリントで隠して椅子から降りる。けれど伊里乃は目敏くその下にあるパンフレットを見つけた。
「東陵大学? りー兄の大学の姉妹校だっけ、何でこんなのあるの?」
「こら、伊里乃」
伊里乃は机に手を伸ばしぱらぱらとパンフレットを開く。それに挟まれている転入の要項を見て眉を顰めた。
「りー兄、もしかして大学変えたいの……?」
訝しげな伊里乃の言葉に利人は口を噤む。
まだ答えは出ない。
けれど決断しなければならない日は間近に迫っていた。
「俺は……」
机の上に並んだプリントと本を見下ろす。
このまま今の研究室に残るという事はすなわち白岡の影を追い続けるという事だ。これまでの講義のプリントを見ていて思う。白岡への特別な気持ちを自覚した今、自分はもう純粋な気持ちでこの学問と向き合う事は出来ないかもしれない、と。白岡という存在を引き摺り続けてしまうかもしれない。
それならばいっその事、新しく始めてみたい。生まれてからずっと住んできたこの土地を離れ、知らない土地で我武者羅になって何かに没頭したい。
周藤の下でならきっとそれが叶う。
ただ、それを選択してしまえば家族と離れる事になる。大好きな妹と会えなくなる。親しい友人とも。
(夕とも、本当に会えなくなるのか)
行きたい。行きたくない。
俺はどうしたいのだろう。
「伊里乃ぉ、どうしよう」
「わっ、ちょっとりー兄⁈」
ぎゅうと伊里乃の小さな身体を抱き締める。どちらも選べなくて頭がパンクしそうだ。
「あっちの大学の先生に誘われてるんだけど、伊里乃に会えなくなるし、それはちょっと」
「……それ、どこ?」
「神奈川なんだ」
黙ってしまった伊里乃の様子が不安になりそろりと腕を離す。恐る恐る顔を覗き込むと、伊里乃と目が合った。
「凄いじゃん。そっちの大学の方がこっちよりレベル高いんでしょ?」
「え、うん、まあそうだけど」
「へーそっかー。良かったね、帰ってくる時はお土産よろしく。鳩サブレーが良い」
「えええ」
全く寂しがらなければ引き止めもしない伊里乃の反応に利人は軽くショックを覚える。私もりー兄と離れるの嫌、の一言を少なからず期待していた利人の気持ちは儚く散った。
「伊里乃は俺がいなくなってもいいのか⁈」
「りー兄はこれを機に妹離れした方が良いと思う」
きっぱりと突き放され軽く涙目になる。そんなあと肩を落とすと、焼き芋冷めるからと袖を引かれた。
「それに神奈川なんて新幹線でひとっ跳びでしょ。全然遠くないよ」
「そうだけど」
「でしょ。寂しくなったら帰ってくれば良いだけの話よ」
それが伊里乃の精一杯の強がりだと知るのは随分後になってからだ。
伊里乃に背中を押されるようにして両親とも話した。不思議なもので、話しているうちにぐちゃぐちゃに悩んでいた胸の内は少しずつ整えられていく。
そうして決心がつくと電話を手に取った。
「周藤先生、雀谷です」
『決まったのかい?』
はい、と澄んだ声で頷く。
もう決めた。もう迷わない。
この話が纏まったら、彼に会いに行こう。
夕に、会いに行く。
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