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79 さようなら、愛しい日々よ〈1〉

『熱だって聞いたけど大丈夫か?』 『そろそろ風邪落ち着いたか? 楽な時でいいからメール頂戴』  もう癖のようにその二通の受信メールを開いては返信出来ずに画面を閉じる。テーブルの上には利人が帰った後の書き置きが置かれたままだ。  あの時夕が起きていた事にきっと利人は気付いていなかっただろう。衣擦れの音を聞きながら夕は利人が去っていくのをじっと背中で感じていた。  服に着替えた後暫く静かだったから何をしているのかと思ったが、どうやら手紙を残すのに何を書けばいいのか悩んでいたようだ。  扉が開く音がして完全に利人の気配が消えるとそこでやっとのそりと起き上がった。半分空いたベッド。学生服の隣にあった筈の利人の服は当然消えている。  そして唯一残された利人の痕跡。 『帰ります。また連絡します』  事務的なその書き置きは、文字の下に薄らと別の文字が重なっていた。  消して書き直したのだろう。目を細め、じっとそれを睨んでいると三文字の言葉が浮かんでくる。 『ごめん』  薄いそれは、確かにその痕跡を残していた。  夕はばっと窓を見ると立ち上がり駆け出す。身体が妙に熱い。ふらつく足で窓際まで辿り着くと錠を外し勢い良く窓を開けた。  冷たい空気が頬を打つ。  道の彼方に小さく利人の姿を見つけてくしゃりと顔を歪めた。  りひとさん。  謝らなければならないのは自分なのに。  ごめんと一言謝る事すら悪いと思ったのだろうか。それとも謝る必要などないと憤ったのだろうか。  胸がぎゅうぎゅうと締め付けられて張り裂けそう。  そんな精神状態が響いたのか、数日高熱に浮かされた夕は身体が正常に戻るのに五日掛かった。けれど身体が戻っても心はどこかへ置いて行ったまま目的もなく日々を過ごす。  自由登校となり生徒の減った学校へ毎日のように出向き、時にノートを開き時にぼんやりと過ごした。学校に用はない。ただ、利人と過ごした時間の多い自分の家にはあまりいたくなかった。 「白岡、またここにいたのか」  図書館でノートを開いたまま目を閉じていると、隣に誰かが座る気配がして薄く目を開ける。 「お前こそまた来たのか、鴉取」 「紅が終わるまで暇だからな」  藍はそう言うと本棚から拾ってきたらしい本を開く。藍は紅が美術部の活動の為に登校するからとよくついてきていた。その為紅が美術部に籠っている間の空いた時間にこうして遭遇する事が間々ある。 「お前らは仲が良くていいよな」 「まあな。でも喧嘩もするよ」 「へえ、お前らでもするんだ」  図書室は閑散としていてあまり人はいない。ひそひそと交わる声は気怠い。 「そりゃあするさ。すぐ元通りだけど」 「ふうん」  夕は徐に懐に手を入れ白い布袋を取り出す。それはずっと胸ポケットに入れている御守だ。  小さなそれをそっと親指で撫でる。 「俺はもう元には戻れないかもしれない」  いい加減腹を括らなければならない。  いつまでも利人から逃げたって何も変わらない。終わりを怖がってもどうにもならない。  藍は不思議そうに夕の顔を覗き込み頬杖をついた。 「何があったか知らないけど、決めつけるのは早いかもよ」  夕は御守を見つめたままふっと口元を綻ばせる。 「俺が、もう無理なんだ」  こっ酷くフラれたも同然だ。希望もないのにこれ以上惨めな思いをするのは辛過ぎる。  利人の気持ちが落ち着くのを待つ? 何か月? 何年?  一体どれだけの間父の思い出を背負い続ける利人を見つめなければならないのか。報われないかもしれない片想いを続けなければならないのか。  きりきりと心臓が痛くて苦しい。  もう、これが限界だった。  ブー、ブー、とポケットの中が振動する。  利人からの着信だ。  震え続けるそれを掌に握り締めたまま、じっと画面に浮かぶ文字を見つめた。          ***  冷たい風が吹き込みぶるりと身体を震わせる。墨色のダッフルコートに両手を突っ込み、首の周りを埋めるマフラーの隙間から白い息を吐き出して防波堤の端から青の深い海を見下ろした。  半年前の夏、人で賑わうこの海に夕や白岡、友人達皆で訪れた。明るい笑い声の絶えない海。その海に、利人は今ひとりで立っている。  冬の海は冷たい。通る風も、灰色の空も、夏の気持ちの良い海とは全く異なる。  けれど利人は冬の海も嫌いではなかった。冬は苦手だけれど肌を撫でる冷たい空気は頭がすっきりする。潮の匂いも好きだ。  こうして広い海を見ていると少しだけ悲しい事も苦しい事も忘れられる気がした。 「良かった、来てくれたんだ」  振り返った利人は顔を緩める。五メートル程離れた場所に夕が立っていた。利人は数メートル距離を縮めた所で立ち止まる。近くもなく、遠くもない。手の届かない距離。 「電話で呼び出したのは利人さんじゃないですか」 「そうだな。電話、出てくれて嬉しかった」  夕はちらりとも笑わない。当然か。利人は口元だけ薄く笑みを残して眉を下げる。 「椿さんに聞いた。普通科に行く事になったって」  夕は特進科を目指してこれまで頑張ってきた。第二希望だった国際科にも入れなかったのは相当ショックだっただろう。  試験に通るだけの実力がついていただけに悔やまれる。 「折角教えてくださったのに無駄にしてすみません」 「そんな事言うなよ、一番辛いのはお前だろ」 「いえ、そうじゃなくて」  肌を刺す風が吹き夕の髪が遊ぶ。夕は少し伸びた髪を耳に掛け、冷たい石のような瞳を利人へ向けて嗤った。 「事情が事情ですから、再試験の措置はありました。でも俺、サボったから試験受けてないんですよ」  くつくつと可笑しそうに笑う夕に利人は目を見開いたまま固まる。  どうしてと辛うじて口を開くと、夕はどこか吹っ切れたような顔で唇を弓なりに曲げた。

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