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80 さようなら、愛しい日々よ〈2〉
「もうどこでもいいなって。先生の驚いた顔は見ものだったなあ、優等生で通してたから俺がサボるなんて思いもしなかったんでしょうね。変に同情してる先生もいましたけど、結局沢山課題出されましたよ」
ふふと笑う夕はまるで壊れてしまっているように見えた。
まるで別人、否出会ったばかりの夕のようで背筋がぞくりとする。
「夕」
父親の死は夕に深い傷を残しただろう。
夕は大人ぶっていてもまだ子供だ。きっとその心の中は繊細で複雑。すべて投げやりになってしまってもおかしくはない。
けれど、果たしてそれだけだろうか。
「俺のせいか?」
声が震える。
不安定で今にも倒れてしまいそうな夕に追い打ちを掛けてしまったのはもしかすると自分なのではないのか。
とても酷い事をした。
思わせぶりな態度を取っておいて、結果として掌を返す形になってしまった。
決してしてはならない裏切りだ。
「自意識過剰」
ハッ、と夕は鼻で笑う。
「その通りだけど」
ずきりと心臓に鋭い痛みが走る。
夕は軽い足取りであっという間に利人の目前へと近づく。ぐいと腰を掴まれびくりと身体が強張った。
「悪いと思ってるならもう一回ヤらせてくださいよ。そしたら許してあげてもいいし、これっきりにしてあげてもいいですよ」
「夕……‼」
ぐ、と強く引き寄せられる。顎を掴まれ唇が近づく。
唇に息が吹き掛かり、気がついたら右手を振り上げていた。
「ったいなぁ……」
夕は呟くようにそう吐き出し赤みのある頬に手を当てる。利人は肩で息をしながらじんとする掌を握り締めた。
「そんな事して何になる。お前は、それで満足するのか」
悲しかった。
それを言わせたのは自分なのかと思うと悔しくて情けなくて仕方ない。
夕に白岡が好きなんだろうと言われて気が付いた。こんな状態で夕に抱かれたくない。とても続けられない。
同情だけで何の覚悟もなしに抱かれようとした訳じゃなかった。
我儘でも、夕とは白岡としていたような気持ちの伴わない行為はしたくなかった。
だから嫌だった。
「冗談。本気にした?」
夕はくるりとコートの端を翻してごめんごめんと悪戯っぽく笑う。
「男同士のセックスって初めてだったけど、やっぱ駄目ですね。女の方が全然良いよ」
痛いしイマイチだったと夕は残念そうに足元の小石を爪先で蹴る。ころんころんと転がった小石は小さな音を立てて海の中に落ちた。
「そもそも男同士なんてありえないって思ってたし、俺どうかしてたみたいです。何か急に萎えちゃってさ」
だからごめんね、勘違いでした。
そう言って掌を合わせて首を傾ける夕に利人は呆気に取られる。そしてぶわりと赤面する。
「そ、そう。そうだよな。何か、俺こそごめん」
これでは本当に自意識過剰ではないか。急に自分が恥ずかしくなって利人はぶんぶんと手を横に振る。
(そうだ、それが『普通』だ。そもそも夕が俺を好きになるなんてそれこそおかしいんだし)
ほっとする筈なのに何故か胸がちくりと痛い。
夕の顔が見られない。
「高校行ったら美人の彼女でもつくりますよ。利人さんも早く童貞卒業出来ると良いですね。あ、何なら誰か紹介しても良いですよ」
「はは、だからうるさいってば。余計なお世話です」
「またまた」
「本当に。それに、どうせ引っ越すんだし」
「……は?」
ふう、とひとつ息を吐く。潮風が鼻先を掠める。利人は頭を上げると視線を夕に向けた。
「今日はお別れを言いに来たんだ。俺、東陵大学に転入して周藤先生の研究室に行く事にした」
「転入?」
今度は夕が何でと口にする。
「え、だって利人さん。そんな県外の大学にいきなり、どうして」
「考古学の勉強、本格的にやってみようと思って。沢山悩んだ末に決めた事なんだ」
夕は眉を顰めたまま、そうですかと放心したように俯く。
利人は目を細めて夕を見上げた。
「俺、頑張るよ。だから夕も頑張って」
「利人さん」
すっと手を出すと、夕は目を丸くしてそれを見下ろす。
そして自分の掌を見ると利人の手に自分のそれを重ねた。
「夕、元気でな」
「利人さんも」
握り合った掌はどちらも冷たい。けれど冷たい皮膚の下には温かな血が通っているのが分かる。
その掌を離すと、途端に熱が消える。身体の内側さえ冷えてしまったかのような寂しさに襲われる。
目の奥が熱くて息も苦しい。利人は震えそうな腕を伸ばして夕の袖を握り締めた。地面を見下ろした瞳に薄い膜が張る。
「ごめん」
地面が歪む。瞬きをすると睫毛を濡らした雫が一粒地面に落ちる。
「結局謝るんじゃないですか」
その声は微かに震えていた。
「利人さん、少しの間目を閉じてくれますか」
静かに染み込んで来るようなその言葉に小さく頷き目を閉じる。輪郭をなぞるように顎を上げられ、濡れた睫毛をそっと撫でられる。
唇に柔らかく温かいものが触れた。
「さようなら」
静かに囁く声が耳元に落ち、肩に触れていた感触が消える。利人は目を固く閉じたまま遠ざかっていく足音をじっと聞いた。
そうして一人になって、そっと目を開く。
「夕……」
顔を覆うように腕を額に押し当てて唇を噛む。
心配で放っておけなくて、呆れる事もあるけれどそれでも心から慕っていた人を失った。
そして今日、もう一人大切な人を失ってしまった。
彼が傍にいると温かかった。彼は何度も自分を心配し、時に叱り、そして笑い掛けてくれた。
当たり前にあった日常はもう遠い彼方。
心に癒える事のない傷を抱えて、利人はそんな日々に別れを告げた。
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イラスト欄にて挿絵。
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