90 / 195
02 モノクローム〈2〉
「俺、好きな人が出来たんだ」
声を弾ませる太樹に霞はへえとどうでも良さそうな返事をする。
また始まった。飽きないなあと霞は心の中で溜息を吐いた。
太樹は惚れっぽく、よく好きになった女の話をしてきた。けれど太樹はそうして恋人が出来てもすぐに気が逸れる。浮気がちな太樹は長続きした試しがなかった。
だから霞は呆れながらもその話を聞いていられる。例え恋人でなくても、飽き性な太樹が唯一離れないのは自分だけだという自惚れがあったからだ。
でも今回はいつもと違った。
いつも熱中するとすぐ告白していた太樹は今回は何故かそうしなかった。相手は清楚な大学生で、荒いところのある太樹が大人しくなってしまうのだ。会っても急に顔を赤くして口数が少なくなる。言葉を慎重に選ぶ。
そんな太樹を見るのは初めてで、霞は面白くなかった。岳嗣と口を揃えて冷やかせば太樹はうるせえよと言って顔を赤らめる。そうした仕草の一つ一つがそれまでの恋とは違っていて、急に焦りを覚えた。
奪われる。
ぞくりとした。一緒にいても太樹はぼうっとして自分を見ない事が増えた。話す回数が減った。それまでは何も話さなくてもただ傍にいるその空気が心地良いと感じていたのに、今ではそれがとても寂しく感じる。
焦りは日に日に膨らむ。
そうしてついに言ってしまった。
「太樹、俺、お前が好きなんだ」
太樹の腕を掴みそう告げた。自分のこの感情が特殊な事は知っていた。だからこの気持ちを告げるつもりはなかったけれど、もう黙っていられなかった。
太樹ならきっと受け入れてくれる。
俺を拒絶する訳がないと、混乱の末過信していた。そうであってほしいと縋っていたのかもしれない。
けれど掴んだ腕を振り払われた時それが間違いだと思い知った。
「何だよそれ。気持ちわりい」
太樹の目が怯えているのが、軽蔑しているのが分かった。
急に何言ってんだよ、冗談だよな? そうだろ?
ぎこちなく笑う太樹の言葉に頷いて笑ってやればきっとまだ元に戻れた。そうすれば親友でいられた。
けれど霞にはもう嘘を吐く気力は残っておらず、その日以来太樹にはあからさまに避けられるようになった。
「霞せんぱーい。いい加減太樹先輩と仲直りしたら? らしくねえじゃん」
「放っとけ。ガクには関係ねえよ」
元からかどうかはさておき後に岳嗣がゲイだと知る事になるが、当時は太樹の事もあって自分の性癖を暴露する気にはならなかった。
そうして三人でいたのが二人になり、岳嗣がいない時は一人になる。太樹と顔を合わせるのが怖くて自然と一人になれる場所を欲した。
そんなある日、街中でたまたまあの女を見掛けた。
彼女は可憐で天使で女神なんだと目を輝かせていた太樹。けれどそこにいた彼女は露出の多い派手な服を纏い甘い香水を匂わせて父親のような男にべったりとくっついてホテルの中へと消えて行った。
太樹と見た、太樹が語る彼女の印象とは全く違う。探ってみれば彼女は太樹の理想からは程遠い女だった。聖女のような見た目とは裏腹に何人もの男を誘惑して手玉に取り小遣い稼ぎの為に売春もする。
岳嗣から聞いた話ではこの時にはもう太樹は彼女と付き合い始めていた。だからこそ裏切られたかのような苛立ちが沸々と湧き起こる。
太樹は今も彼女の本性を知らずのんきに浮かれている。
あの女は太樹に相応しくない。
「太樹、あの女はやめろ。浮気してる」
「いい加減な事を言うなよ。あの人の悪口は許さないぞ」
太樹との久々の会話は険悪なものだった。太樹は霞の言う事を聞こうともしない。彼女を信じ切っている。
頑固者。
太樹の融通の効かなさは今に始まった事ではない。それでも太樹との間に亀裂が深まった事は言うまでもなかった。
そして霞が取った手段は彼女を寝取る事だった。そうすれば流石の太樹も分かるだろう。理想と現実は違うと言う事。
けれど結果として、それは太樹に一層恨まれるだけだった。
「何でだよ霞! そんなに俺が憎いか⁈ それとも最初からそれが目的だったのか⁈」
「別に俺はあの女の事なんてどうでもいい。もう分かっただろ、あの女は誰とでも寝るしお前もその中の一人に過ぎないって。お前は遊ばれてるだけなんだよ」
叫び殴り合いもう滅茶苦茶だった。太樹は鬼のような形相で泣きながら掴み掛かって来る。
「だから何なんだよ! 例えあの人が俺だけを見ていなくたって、それでも俺はあの人が好きなんだよ。お前にそれを壊す権利はないだろ」
その言葉は鋭く霞の心臓に突き刺さる。
太樹を恨んでいた訳じゃない。幸せに笑う太樹を許せなかった訳じゃない。
でも、太樹の幸福を心から願ってはやれなかった。太樹を思うならもっと別の方法もあったんじゃないのか。
太樹を傷つける事で太樹との関係を修復しようとしたのではないか。
「なあ、霞。あの頃のままだったら良かったのに、どうしてこんな事になっちまったんだよ。俺達親友だったんじゃねえのかよ」
太樹も苦しんでいた。けれどその言葉がどんなに霞の心を抉っているか彼は気付かない。
太樹への想いを全否定するその言葉は霞を傷つけるものでしかない。
「お前の事信じてたのに」
それは何に対しての言葉なのか。
親友という関係を壊したから? それとも女を奪ったから?
「俺を気持ち悪いと思うなら仕方ない。でも、お前を好きになったのが間違いだったみたいに言うな」
霞は震えながらそう吐き出し駆け出した。待てよ、と背後から声が追う。
脇目も振らず走って、そして。
太樹の叫び声が聞こえた。
そこは崖が隣り合わせで危険な場所だった。前日の雨でぬかるんだ地面に足を滑らせたのだろう、丁度柵の壊れた場所から太樹は転がり落ちてしまった。そして岩に頭を強く打ち付け救助隊に救い出されるも搬送先の病院で呆気なく亡くなった。
太樹の家族は霞を非難した。土下座をして何度も謝る霞を彼らは決して許さず太樹を返してよと涙を流す。
あれは不運な事故だ。太樹の家族が霞を責めるのも八つ当たりに過ぎないのだろう。岳嗣は霞を庇ったが、それでもあの時太樹と揉めなければ彼が死ぬ事はなかった。
罰せられたかったのだ。
もう自分には生きる資格なんてない。そう思った。
けれどいざ死を目前にすると足が竦んだ。学校の屋上の端まで立ち、後は飛び降りるだけなのにどうしても最後の一歩が踏み出せない。
「うっ、うう、あぁ」
膝をつきコンクリートの地面を何度も何度も殴りつける。皮が剥け血が滲んでも拳をぶつけ続けた。
「すまない、太樹。太樹、太樹ぃ……ごめん……」
結局霞は死ねなかった。こんなに死にたいのに死ぬのが怖い。
何て情けないのだろう。
俺には誰かを好きになる資格なんてない。
俺だけ幸せになるなんてあってはならないんだ。
霞は赤いガラスを握り締めた血まみれの拳を一層強く握り込んだ。
ともだちにシェアしよう!