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03 モノクローム〈3〉
『霞、定期健診ずっとサボってるだろ。知ってんだからな。次サボったらぶっ殺す俺の仕事を増やすなさっさと来い』
「やだなーもー、ちい兄怖いんだから。それ健診する方が時間掛かるじゃないか、ちい兄ったら矛盾してるよ」
『あ? もう一度言ってみろ』
「ごめんなさい。行きます行けば良いんでしょう」
『必ず来いよ』
ちい兄こと平良の不機嫌そうな言葉を最後に電話は切れる。
平良とは大人になってからの方が話す事が増えこうして時々連絡が来る。きっと今の方が兄弟らしいと言えるのだろう。長兄とは相変わらずで滅多に顔を合わせないが、別に仲が悪い訳ではないしお互い四十を超えているのだからそんなものだろう。
霞は気だるげに伸びをすると面倒だなあと呟いた。
「健診なんて受けなくていいんだけどなあ」
私室化している古い資料室の中、ソファに凭れ掛かった霞は一人ごちる。
外は穏やかで天気が良い。霞は春の陽気を窓越しに感じながらうとうとと舟を漕いでいた。
けれど、トントンと遠くで音がして目が覚めた。学生らしき声。この階、いやこの建物に誰かが用があるとすれば霞の研究室位のものなのだから、音のする場所を探らずとも目的とする相手は一人しかいない。
資料室を出ると青年の後ろ姿が見えた。霞がいないと踏んで帰ろうとしていたのだろう。声を掛けようと口を開いた霞は、次の瞬間息を飲んだ。
窓から差し込む光に照らされたその髪は薄らと赤く滲み古い記憶を呼び起こす。
――太樹。
振り返ったその男は、あっと口を開くと安心したように目を細めてぺこりと頭を下げた。
「こんにちは。あの、白岡霞教授ですか?」
「……ああ。うん、そうだよ」
数秒だけ心臓が動くのを止めたようだった。我に返った霞は青年の問い掛けに頷く。
「今日からこちらの研究室に配属が決まりました、雀谷利人と申します。これからどうぞよろしくお願いします」
利人と名乗ったその男は礼儀正しくまた頭を下げる。
よくよく見れば髪色は太樹より明るいだろうか。赤みのある深い栗色の髪。背と体格は確かにこんな感じだったが、顔は当然似ていない。太樹はこんなに律儀な性格はしていなかったし、目の前の男は太樹ほど乱暴で粗雑そうにも見えない。
「よろしく、雀谷君」
握手を交わし、どきりとする。
その手の温かさは霞の体温の低い手には熱い位で。
錯覚だと、こんなにも別人であることを確認した後だというのに太樹の掌もまた熱かった事を思い出した。
そして思う。――まだ、思い出せるのか、と。あれから二十年以上経っている。当然記憶は廃れる。『太樹』の面影をこんなに鮮やかに感じられたのは久し振りで。
胸がざわつくと共に、彼を忘れていない自分に安堵した。
この時はまだ、雀谷利人という若く何の関係もない男を自分の因果に巻き込むつもりなんてなかった。
寿命を告げられ、その直後に予定より早い死を迎えそうになったところを彼に助けられるまでは。
助けなくて良かったのに、あのまま死んだって良かったのに。
彼のぎらぎらと突き刺してくるような生への執着に、眩しさに、この心は激しく揺さぶられた。
(だからこれは、僕を生かしてしまった君の責任)
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