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05 秘密のリリー〈2〉
それからまもなくして、霞は白岡家の婿となった。
とはいえ霞は不在がちだし椿も忙しく、たまにしか顔を合わせる事はない。
霞は変わらない。それは椿にとって何より安心出来る事で、微かに居心地の良さを感じていた。
深入りしない。互いの生き方に口出しをしない。
いつしかそんな暗黙の了解が互いの心の中にあったのだと思う。
霞の方はただ興味がないだけなのかもしれない。それでも椿にとってそれは大事な事だったし、椿も霞が奔放な性生活をどこぞの男と交わしていても何も言わなかった。霞はうまいもので、自分がバイであり結婚後も男を抱いているなんて情報は決して表には漏らさない。
表向きは夫婦だが、椿にとって霞は友人であり同志であり戦友だ。利害の一致で成り立っている夫婦という偽りの関係。
それは揺るがないようでいていつでも崩せるような不安定な関係だ。
それを強く感じたのは夕が生まれた時だった。
抱きますか、と赤子を差し出した椿に対し霞は戸惑いの表情を浮かべてそれを拒んだ。
いくら遺伝子上の父親が霞でも、この関係をつくった時から霞に父親の責任を負わせようとは思っていない。
子供は無事生まれた。もう、いつだってこの関係を終わらせてもいいのだ。
離婚しましょうか。そう紡ごうと口を開きかけた時、あまりにも霞が思い詰めた顔をしていたから驚いた。
「椿さん、すみません。でも、どうしてもその子は抱けない」
何故と問い掛けると、霞の口からは予想外の言葉が零れた。
「その子を抱いてしまったら、僕はきっと自分を許せなくなる。それだけは、嫌なんです」
そう言って拳を震わせる霞を見て、いつしか聞いた彼の話を思い出した。
『僕は幸せになるべき人間ではないのです』
その言葉を聞いた時、ああこの人は囚われているんだと感じた。過去に縛られ、そしてそれを良しとしている。
これが最善だと選んだ幸福を離すまいとする椿と幸福を得る事を許さない霞。
似ているようで、全く似ていない。
可哀想な人。
「分かりました」
椿は掲げた赤子を自分の胸に戻す。そして離婚の話もその胸に仕舞った。
霞に対して特別な感情が芽生えた訳ではない。今でも一番愛しているのは親友の柑奈である事に違いはないし、一番守るべき子はこの子だ。
何故だろう。霞はまるで幼い子供のようだ。殻に閉じこもって外へ出る事を望まない。
そういう人なのだ。自分が口を挟む事ではないし、放っておけばいい。そう思っていたのに。
この子の傍にいればもしかしたら霞は変わるかもしれないし、そうはならないかもしれない。
それとも別の何かが彼を変えてくれるかも――そんな微かな希望を心の片隅で抱き始めた。
椿は親友との今の関係に満足している。けれど霞はこのままでは死にながら生きているようなものだ。
いつか、霞が心から笑える日が来れば良いのに。
彼の柔らかな微笑みはいつも偽物のように見えるから。
「椿! お疲れ様。椿も霞さんもおめでとう」
ひょっこりと顔を出したのは柑奈だ。その足元では小さな少女が興味深げに大きな目をぱちぱちと瞬かせていて、柑奈の後ろには柑奈の弟であり霞の後輩でもある岳嗣が顔を覗かせている。
「こんにちは椿ちゃん。男の子だって?」
「こんにちは岳嗣君。そうよ、元気な男の子」
へえ、と岳嗣は赤ん坊の顔を覗き込む。
「名前は? もう決まったの?」
柑奈の問いに椿はええと言って頷く。
「夕よ。夕顔の夕。白くて綺麗な花を咲かすの」
素敵ね、と言う柑奈に椿は嬉しそうに微笑む。
夕顔には『逆境を克服する力』という花言葉がある。
「この先辛い事や苦しい事が沢山あるでしょう。けれど、貴方ならきっと越えていけると信じているわ」
優しくそう語りかけると、眠っていた赤子はぱちりと目を開きおぎゃあおぎゃあと泣き始める。
霞は皆より一歩後ろの場所に立ったまま微かに微笑んでいた。まるで戸惑いを隠すかのように、いつもの仮面を身につける。
この願いが『貴方』にも届きますようにと、そう願った。
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