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03 オータム

 食後のコーヒーで一息吐いていると、電話に出ていた薫が渋い顔をして電話を切った。 「仕事ですか?」 「うん、ちょっとトラブル。ユウ君、悪いけど事務所には一人で行ってもらえる? あ、でもここからの道分かんないかな」 「平気です。俺の事は気にせず行ってください」  夕の言葉に薫はありがとうと言って残りのコーヒーをごくごくと飲み干す。まだ結構熱いだろうに、飲み終えるとごちそうさまと言ってカップをソーサーの上に戻した。 「あれ、薫さんもうお帰りですか?」  どきりとして顔を上げると利人が立っている。 「ごめんね利人君、もうちょっとゆっくりしたかったんだけど急用。お勘定お願い」 「あ……そうですか、じゃあもっと早く持ってくれば良かったですね」  しゅんと肩を落とす利人の視線の先、彼の手元のトレイには二皿のデザートが行儀良く乗っている。 「畑山さんが試作のケーキをつくったので良かったらお二人にって」  カウンターへ視線を移すと、その向こう側で畑山が苦笑いを浮かべている。 「薫ちゃん、それ食べてからお仕事行かれたらどうですか? 甘い物お好きでしょう」 「好きだけどー! ああん美味しそう、とっても残念だけどメニュー化したら絶対頂くから! マスターありがとう! 利人君!」 「あっ、はいお勘定ですね」  利人は薫の気迫に気圧されながらわたわたとレジのある方へ小走りに向かう。 「今日もごちそうさま。あのケーキは私の代わりに利人君が食べてよ」 「えっ」  勘定を終えた薫はそう言い捨てると、じゃあねとひらりと手を上げてヒールを鳴らし颯爽と去っていく。  残された利人は戸惑いを顔に浮かべてぽかんとしている。畑山の視線は利人から夕へ一瞬向けられ、その唇が緩く弧を描いた。 「良いよ利人君。もうすぐ交代の時間だし、ちょっと早いけどもう上がってさ。彼と食べて行ったら?」  君はまだ平気かな、と畑山に話し掛けられ頷く。畑山は満足そうに頷き返すとほらと利人の背中を押した。  利人と目が合う。  どくん、どくんと鼓動が鳴る。 「でも……」  利人はそわそわと畑山と時計とを見て気にしているようだった。するとずっと大人しく椅子に座っていた少女がぴょんと床に降り、すたすたと利人の傍まで来たかと思うとぐいと利人の手を引っ張る。 「スズ君、アキが良いって言ってるんだから良いのよ。ちょっと混んだって私とアキで何とか出来るわ」 「このみちゃん」  利人がこのみと呼んだ少女は利人の手を引っ張ってそのままカウンター奥の部屋へと行ってしまう。幼い容姿に似合わず大人びた物言いをする少女だ。ばたばたとした店内は急に静まり返り、夕と畑山の二人だけになる。 すると先程利人が手にしていたトレイを今度は畑山が持って夕に近づいてきた。 「苺のムース。良かったら召し上がってください」 「ありがとうございます」  皿の上を苺やソースが彩りその中央には透明な器がちょこんと乗っている。器の中は桃色と黄色で層になっていて、これがムースではなく手掴みで食べられるようなものなら薫は立ちながらでも食べて行ったかもしれない。 そう思うと、利人との席を設けてくれた薫達とこの偶然に感謝だ。 「お待たせ」  数分後、きちんとした仕事着からラフな私服へと着替えた利人が戻って来た。  改まると何だかそわそわして落ち着かない。それは利人も同じなのか、先程まで薫が座っていた席に腰を下ろした利人はどこか照れ臭そうだ。 「本当、久し振りだな。椿さんは元気?」 「はい。母は相変わらず忙しくしてますけど、小柄な割に体力は人一倍ある人ですから」  そうか、と利人は懐かしそうに目を細める。  利人の手元には薄い茶色のカフェオレがゆらゆらと湯気を上げていて、指先を温めるように利人の指先が白いカップを包み込む。 『利人さんは今――』  そう尋ねたい事は沢山ある。ある筈なのに、いざ本人を目の前にしたら言葉が思うように出て来ない。 「眼鏡珍しいな。雰囲気全然違うから一瞬誰かと思った。目悪かったっけ?」 「いえ、これダテなんですよ。外を歩く時は念の為気を遣えって言われてるので」 「気を遣え?」  きょとんとする利人に夕は少し気恥ずかしげに苦笑いを浮かべる。 「変装って言うと大袈裟ですけど。実は俺、今モデルの仕事を少しやっていて。今回もそれでこっちに来たんです」 「あ――そっか、モデル」  利人ははっとすると考え込むように小さく頷く。 (これは)  この反応は夕がモデルをしている事を知っているそれだ。  少し広告や雑誌に載る程度。気づかなくても当然だ。けれど、もしかして気づいていたのかと期待に胸が高まる。 「利人さん……?」  夕の声に利人は「すごいよな」と曖昧な返事をしながらカップに角砂糖を落としてくるくるとスプーンで掻き混ぜる。 「夕、前にも増して格好良くなったもんな。背も結構伸びただろ? 目線の高さ全然違ってんだもん、びっくりしたわ」 「利人さん、俺がモデルしてるの知ってたんですか?」  利人は手をぴたりと止めると、あー、と視線を流す。 「陽葵(はるき)が、」 「陽葵さん?」  予想外の言葉に首を傾げた。そういえば利人の友人にそんな人もいたなと眼鏡を掛けた陽気な青年の顔が頭に浮かぶ。 「陽葵が教えてくれてな。何度か見た事あるんだ。ほら、『クロム』のホームページにも載ってただろ?」 「ああ、そういえばそうですね。そうですか、陽葵さんが」 「うん。あ、じゃあ薫さんとは仕事で?」 「そうです。事務所の人なのでその打ち合わせを」 「そうだったんだ」  利人がぎこちない。 (当然か。一年振りだもんな)  夕だってそうだ。ずっと胸の奥がざわざわして落ち着かない。  そうだ畑山さんのケーキ食べよう、と利人は夕がまだケーキに手を付けていないのを見てスプーンを取り出す。  美味しい。ほらお前も食べな、畑山さん料理すごく上手でデザートも絶品なんだから。  そう話しながら利人の口元に運ばれる銀のスプーンの先を何気なく見つめる。 開いた唇の奥で真っ赤なソースと桃色の欠片が消える。微かに覗いた舌に絡まり飲み込まれる。  吸い込まれるように、じっとその動作を見つめた。 「夕? どうした、食べないのか?」  ぴく、と睫毛の先を動かして夕は顔の筋肉を和らげる。  頂きます。ああ、本当に美味しいですね。甘さも丁度良くて、食べ易い。  そんな事を口先で並べながら内心では焦っていた。味も正直甘いという事位しか頭に入ってこない。  ずっと会いたくて、でも会いたくなくて、会うのが怖くて。  それでもこうして会えたらやっぱり嬉しかった。気に掛けてくれていたんだと、胸が熱くなった。  でも思い出した。  利人はこの再会を喜んでいるように見える。けど、果たして本当にそうだろうか。利人にとって自分は、忘れたい過去の一部なのかもしれない。  その唇を、舌を、身体を強引に我が物のように扱ったのは誰だ?  利人は住み慣れた土地を離れ『ここ』にいる。あの日以来利人から連絡が来た事は一度としてない。  それが何よりの証拠ではないのか。 (ああ、そういえば今だって利人さんは自分の意志でここに座ってる訳じゃない。何だ、だから渋ったのか)  勝手に一人で浮かれて馬鹿みたいだ。  相手の事なんて何も考えていなかったのだ。ただ自分の境遇に悲観して、余裕なんてある筈もなく失恋を引き摺り続けた。

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