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05 帰寮〈1〉

 喫茶『オータム』でアルバイトを始めてからもうすぐ一年が経つ。  店長の畑山秋葉(あきは)は温和で人柄が良く、丁寧に手入れのされた年代物の調度品に囲まれた店内は穏やかな彼の印象そのものだ。元々ひとりで切り盛りしていたそこへ利人と達也が交代で、時には二人で入る。  店によくいる少女このみは畑山の養女で、上の階のマンションで一緒に暮らしているらしい。畑山を『父』ではなく『アキ』と呼ぶこのみの姿は決して冷たいものではなく、互いが互いを尊重して寄り添っている優しい親子だ。  そんな温かな店の最寄り駅から電車に揺られる事数十分。東京から神奈川へ県境を超えて駅に止めている自転車に跨り暫く漕ぐと緑に囲まれた大学が見えてくる。  日本海を臨む西陵大学とは逆にやや内陸側に位置する東陵大学は都心から近い割に緑が多く広々とした大学だ。その敷地の片隅、道路を挟んだ隣に男子大学寮――葵寮がある。  利人が寮の玄関を抜けてスリッパに履き替えると、ラウンジに見知った顔を見つけ頬の筋肉を緩めた。 「沙桃、樹さん」 「リイおかえり。バイト帰り?」 「そ。ただいま」  自動販売機の前に立っている金髪の青年は翡翠の瞳を柔らかく細めて口を開く。  篠原沙桃(しのはら さと)。見た目は西洋人のようだが日本に長く住んでいる為日本語の達者な日仏ハーフだ。穏やかな性格をしているが責任感は強く利人が編入して来た当時は寮長も務めていた。  沙桃の隣では黒髪に眼鏡の青年、雉子島(きじしま)(いつき)が申し訳程度の視線を利人へ向けるもその視線はすぐに手元の缶コーヒーへと落ちる。  ぱちぱちと数回プルタブを弾いて眉間に皺を寄せる樹に沙桃が「貸して」と言ってぷしゅっとプルタブを起こす。そして樹は当たり前のようにそれを受け取り缶の縁に口をつけた。  沙桃と樹はルームメイトだがその一言でくくるには足りない程仲が良い。まるで熟年夫婦のようだと言ったのは誰だったか、元寮長と元副寮長という目立つ立場だった為か二人の仲の良さは寮生全員が知っている。  樹とは一昨年の夏に西陵大学で知り合ってから半年振りの再会だった。沙桃とも樹を介して話すようになり、こうして気軽に話す位には親しくなった。 「――撮影の見学?」 「うん。夕が、あ、俺の知り合いがモデルやってんだけど今こっちで撮影しててさ。明後日なんだけど一緒に行かないか?」 「明後日か。それ僕達もお邪魔しちゃっていいのかい」 「おう、友達連れて来ていいって。どう?」  尋ねる利人に沙桃は長い睫毛を瞬かせてそうだねえとちらりと樹を見る。  夕と別れて電車に乗っている時、夕からメールが届いたのだ。良かったら撮影を見に来ないかという誘いのメールだった。 「樹さんは知ってますよね。白岡夕ですよ」 「シラオカユウ? 白岡……ああ、『霞さん』とこの」  樹は眉を顰めて難しい顔をするも思い出したようで眉間の皺を緩める。 『霞さん』って? 岳嗣(たけつぐ)さんの知り合い。ああ、周藤先生の。樹と沙桃がそんな会話をする。  霞というその音の響きに懐かしさを覚える。こっちに来てからずっと口にするどころか耳にもしていない。  まるでそんな人はいなかったかのように、利人の周りは新たな環境で満たされていた。  当然忘れた訳ではないけれど。 「行きましょうよ、樹さん」 「俺はいい」  悩む事もなく即答の樹に利人はええーと眉を下げる。 「興味ない」  しれっと言い切る樹に続いて沙桃がごめんねと微笑んだ。 「いっくんが行かないなら僕もやめとくよ。でも珍しいね」 「え?」  沙桃は樹を『いっくん』と呼び、樹は沙桃を『モモ』と呼ぶ。沙桃はともかく樹が他人をそういう可愛らしい愛称で呼ぶのは意外だったが、どうやら子供の頃からの付き合いらしくその名残だそうだ。  利人が沙桃の言葉に疑問を抱き首を傾げると、沙桃はふふと微笑む。 「リイもそういうの行くんだね。それとも余程仲の良いお友達なのかな」  じゃあね、と手を振って二人と別れる。一人残った利人は沙桃の言った言葉を頭の中で反芻していた。  樹の気持ちが良い程の付き合いの悪さは人一倍だが、一見社交的に見える沙桃も沙桃で誰とでも遊びに出掛ける訳ではない。樹と行動を共にしたがるが故に彼が他を切り捨てる事は珍しい事ではなかった。  そして自分はと言うと、人の事は言えないのだろう。

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