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08 変わらないね

(しまったな)  スタジオを出て手洗いを済ませた利人は道に迷っていた。どうやら途中で戻る道を間違えてしまったようだ。  仕方なく記憶を頼りに元来た道を戻っていると、遠くから微かに人の声が聞こえる事に気づく。 「すみ、」  良かった、道を訊こうと声のする方の角を曲がった利人は出し掛けた声を引っ込めすぐさま影に隠れた。 (うわあああ)  自動販売機の近くに男と女。二人はくすくすと顔を近づけて言葉を交わしそしてキスも交わしている。とんでもないところへ来てしまった。 (どうしようどうやって戻ろう。何でこの人達こんなとこでこんな事してんの)  行きたい方向は彼らとは反対側の道だが、ここから出れば間違いなく利人の姿は彼らの目に映る事だろう。  何も目の前を通る訳ではないのだから知らん顔して行けばいいのだろうが、何せ予想外の出来事過ぎてそんな平常心は持ち合わせていなかった。  静かになったので恐る恐る顔を出す。もしかして行ったのか。お願いだ行ってくれと心の中で懇願するも虚しく、まだいるどころかキスの真っ最中だった。非常に残念である。  凍り付く利人を余所に二人の身体はより密着する。そっと再び隠れようとするも、男の切れ長の細い目が利人を捉えた。  射抜くような視線に青ざめる。  けれど男は咎める事なくむしろ楽しむように笑んで、まるで見せつけるかのように口づけを深めた。  硬直し目を逸らしたいのに逸らせなくなっていた利人は迫る背後に気づかない。 「――利人さん」  突然耳元で囁かれ心臓が跳ねた。  叫びそうになるのを口を両手で塞いで何とか堪える。 (夕……⁈)  唇の前に人差し指を立て、ここから離れようともう片方の手で夕を押してアピールする。すると夕はひょいと角から首を伸ばして目を細めた。 「あー、そういう事」  呆れ顔と共に溜息。こっち、と夕に背中を押されその場を離れる。 「中々戻って来ないって聞いたからどうしたのかと思えば。利人さん覗き見の趣味なんてあったんだ」 「なっ、そんなのあるか馬鹿! あ、あんなとこであんな……。出るに出られなかったんだよ。お前こそ撮影は?」 「休憩。ちょっと長めに空くので上の階にあるロビーでコーヒーでも飲みましょう。……利人さん、変わらないんですね」  エレベーターの前に着き夕の足が止まる。ざわざわと遠くで騒がしい気配を感じるもここは静かだ。 「小馬鹿にされてる気がする」 「そんな事ないですよ」 「いやあるだろその顔はあるぞ。俺だってな、変われるもんなら変わってるわ」  ポーン、と軽やかな音と共にエレベーターの扉の上の印が黄色く灯る。扉が開き、夕が先に足を踏み入れ続いて利人も足を運んだ。 「へえ、どんな風に?」 「年下に馬鹿にされない位スマートな人間に」 「なれるんですかねえ」 「何だと」  腕を組みくすくすと笑う夕を見上げ唇を尖らせる。  けれどこのやり取りが何だか可笑しくて、利人は思わず表情を崩した。 「酷い奴」  するりと肩の力が抜ける。故郷を離れ親しい人間のいない土地でずっとやってきたからだろうか。強く気を張っているつもりはなかったが、何だかとても心地良くて安心する。  カメラを前にした夕はまるで知らない人のようだったけれど、やっぱり中身は自分の知っている夕だ。 「お前だってそういうとこ変わんない」  くたりと笑って。  すると突然肩を掴まれ夕の顔が間近に迫った。 「ゆ、」  何だと思う間もなく唇が重なる。柔らかなそれは温かくて、そして懐かしい。  一瞬頭を過ぎったのは、一年前の夕との別れ。  ざわりと胸が騒ぐ。  ポーン、と再び音が鳴り夕の背中の向こうにある扉が開かれるともう唇は離れていた。人気が多いのか、ざわざわと賑やかな声が聞こえる。 「スマートな人間に?」  にやりとした夕の顔は目が合うや否やぴたりと固まり、その悪戯っ気のある表情を消して一転焦ったような顔に変わる。 「り、利人さん……?」 「夕? 何、どうかし、」  言葉を言い切らないうちに自分の瞳からぽろりと雫が転がり落ちる。 「――え」  頬を擦るまでそれが涙だとは気付かなかった。動揺する夕を前に利人もまた混乱する。 「ご、ごめんなさい俺のせい……ですよね」 「いや違、はは何だこれ? どうして……」  ぽろ、ぽろろと再び小さな涙の粒が零れる。それと同時に急に身体から力が抜けた。 「利人さん!」 「ごめ、何か、ほっとしちゃって」  ぐらりと傾いだ身体を夕が受け止め、何とか倒れるのを堪える。 「ありがとう、夕」 「いえ、それより利人さんどういう……」  濡れた頬を拭って顔を上げ、戸惑う夕の目をじっと見る。 「ありがとう」 「利人さん……?」  微笑む利人に夕は首を傾げる。  今ここに夕がいて、以前のように変わらず接してくれる。  それがどんなに信じ難く、そしてどんなに嬉しいか夕は知らないだろう。  あの時、夕のいなくなった海岸できっともう彼に会う事はないのだと悟った。そういう『さようなら』なのだと。  けれどまた会えた。  だからもう、それで十分だ。    ***       「後藤さん、何やってるんですか」  早く行きますよ、と機材を抱えた若い男が声を上げる。  後藤と呼ばれた男は目元を覆う黒髪の隙間から小さな瞳だけを動かしてエレベーターから離れていく二人の姿を追った。 「はいよ」  唇に咥えていた煙草を灰皿に押し当て踵を返す。  そうして男はカメラの入った鞄を抱えて仕事へと戻った。

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