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10 キスアレルギー〈2〉

「リイ、調子はどう? 二日酔いって聞いたけど」  歓迎会の翌日の夕方、沙桃が様子を見に部屋を尋ねて来た。樹も一緒だ。 「ああ、うんもう平気。昨日は折角の歓迎会だったのに悪い事したな」  まさか吐くなんて自分でも予想外だった。酔い潰れる事はあっても吐いた事は恐らく一度もない。公衆の面前で吐かなかっただけましだが、それでも情けなくて悲しくなるしショックだ。加えて歓迎会を盛り下げてしまったであろう事に罪悪感も募る。  眉を下げ申し訳なさそうにそう言うと、沙桃は首を横に振って笑う。 「リイが謝る事じゃないよ。こっちこそ悪かったね。今度からは無理に飲ませないよう言っておくから」  ダイニングテーブルの椅子に座るよう沙桃と樹を勧めコーヒーを用意する。マグカップは三つ。達也は外出中の為不在だ。  それじゃあと座る沙桃に、向かいの椅子に腰を下ろそうとした樹が眉を顰めた。 「何言ってんだモモ。こいつが吐いたのは酒のせいじゃないだろ」 「いっくん?」  どういう事、と沙桃が目を丸くする。利人も同様だ。  樹はどかっと椅子に座り、二人の顔を見ると苛立たしげに舌打ちをする。 「要はあの一年がド下手だったんだろ。顔もキモかったし」  だろ、と睨みつけられ後ずさる。樹は元々キツめの綺麗な顔立ちをしているせいかその様は妙に迫力がある。沙桃はそれを聞くとははあと頷いた。 「成程ね、それなら仕方ないか」 「いやそこ納得なんだ⁈ あの子可哀想だな⁈」  樹の辛口発言に否定せず微笑んでいる沙桃。甘い顔立ちに騙されがちだが見た目にそぐわぬ毒を持っているような気がした。 「今までのオトコは上玉か?」 「あ、リイこっちなんだ。僕その話興味あるなあ、どうなんだい?」  何でもない事のようにさらりとそう口にする樹とテーブルに肘を突き身を乗り出す沙桃に利人は「えっ」と目を丸くする。  硬直する事数秒。樹の言わんとしている事にやっと気づくとぶわっと顔に火が噴いた。 「オ、オトコって、オト」 「何恥ずかしがってんだ気持ちわりいな。シラ切っても無駄だぞメス臭い顔になりやがって」 「メッ、えっ、嘘何ですかそれ」  あまりのショックで青ざめる利人に沙桃が大丈夫と手をひらひらさせる。 「いっくん、そういうの敏感なんだよね。それで? 今恋人は?」 「い、いないけど」 「うんうん。じゃあ前付き合ってた人はキス上手だったんだ」  沙桃の質問攻めに思わず言葉が詰まる。『キス』という言葉から一瞬夕の顔が頭に浮かぶが、それを振り払うようにぶんぶんと頭を振った。 「待って、知らないからそんなの。そもそも……いや、ていうかやっぱり悪酔いしたせい」 「ほう、じゃあ雀谷は俺が間違っていると」  空気に亀裂が入るかのようにぴしりと鋭い樹の視線が突き刺さる。これは面倒臭い。  そもそもこの話の流れ自体可笑しくはないか。これはもう早々にこの話を終わらせるしかないとちらりと沙桃を見るとぱちりと目が合った。  すると沙桃は利人の心中を察してくれたのか口角を上げこくりと頷いて見せる。良かった、これで安心――かと思いきや、沙桃はとんでもない爆弾を落とした。 「なら試してみようよ! 今なら酔いは醒めてるだろうしさ」  どうかな、と何の悪気もなく微笑む沙桃を前に利人は開いた口が塞がらない。  どうかな、ではない。樹も沙桃の突拍子もない提案に呆れているのだろう、怪訝そうに眉を顰めている。 「モモは駄目だ」  樹はそうぴしりと言い放つ。ほっと安堵していると樹は徐に椅子から立ち上がった。 「俺がやる」 「何でそうなるんです⁈」 「いっくん上手いよ?」  違う、そうじゃない。樹も沙桃もフォローすべきところはそこではない。 「上手いとか上手くないとかじゃなくてな……て、あれ。待って。沙桃、何でそんな事分かるんだ」  はたと沙桃の発言に違和感を覚える。らしいよ、でもなく断定。まるで知っているかのような言い方だ。 「何でって」  ねえ、と沙桃はにっこり笑って樹の顔を覗く。釣られて樹を見るとふいと目を逸らされた。  樹は同性愛者だ。二人の仲の良さはこうして話しているだけでよく伝わる。とにかく互いのパーソナルスペースが狭い。  そしてこの意味深な空気。 「お二人はもしかして、その、好き合って……?」  ふふ、と沙桃が目を細めて微笑む。樹は目を逸らしたままだがそれらが示す事は一つだろう。  驚きと共に、どこか納得する。 「さっさと済ませるぞ」 「えっ」  驚く間もなく樹がずかずかと大股で近づいて来て腕を掴まれる。 「樹さん、済ませるって何を」 「何を? 言っただろ試すって。手間取らせんなよ」 「ええ⁈ 付き合ってるなら尚更駄目じゃないですか! 嫌じゃないんですか⁈」 「別に何も思わねえ」 「ちょっとは気にしてくださいよ! もう! 沙桃も黙って見てないで!」  恐らく腕を振り払って部屋から出て逃げる事は可能だ。男同士とはいえ樹は細い。力技ではこちらに分がある。  けれど相手は樹だ。失礼な事は出来ない。いや失礼をされているのは自分だが、それでも下手をして怪我でもさせてしまったらその方が嫌だ。 「だって猫と犬がじゃれ合ってるみたいで可愛くて。リイなら僕は構わないよ」 「構ってくれよ!」  変だ。樹も樹だが、沙桃の方が余程変だ。異質過ぎる。いっそ怖い。 「雀谷、目ぇ閉じろ」  ああ、何でこんな事になってしまったのか。  片側の口角を上げニヒルに笑む樹。  逆らう事を許さない絶望的なその命令を受け入れるしか道はなく、反論する意志はぼろぼろと削ぎ落とされる。  都会の人間は怖い。  どこかで聞いた事のあるフレーズが頭を過ぎった。

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