110 / 195
12 アフターファイブ〈1〉
撮影に取材、レッスン。目まぐるしい東京での日々はあっという間に過ぎていく。
事務所でレッスンを受けていた夕は夕飯を食べようと近くにあるイタリア料理店に足を運んだ。まだディナータイムは始まったばかりで客足は少ない。
外食するには時間の都合が悪かったり面倒だったりでコンビニで済ます事も多いが、これなら騒がしくないし落ち着いて食べられるというものだ。
そうして見渡しているとふと店内に貼られているカレンダーに視線が止まる。もう三月も終わりだ。夕の瞳は隅に小さく印刷された四月分の日付に吸い寄せられる。
いらっしゃいませ、と店員に迎えられカレンダーへ向けていた視線はぱっと店員へと移された。空いた席に着くよう促され人の少ない方へ足を踏み出すと、突然背後から声を掛けられる。
「ユウ! ユウじゃない?」
振り返ると大きく波打った明るい茶髪を肩に垂らした女が猫のような大きい瞳をぱっちりと開いて笑っている。
「ユウもご飯食べに来たんだ? 丁度良かった! こっちよ」
「えっ」
ぐいと強引に腕を引かれる。どうやら気楽にひとり飯とはいかなくなったらしい。
ぽってりとした赤くセクシーな唇が印象的な彼女は同じ事務所のモデルの白取楓だ。売れっ子人気モデルで、何度か見掛けた事はあったがまともに言葉を交わしたのは先日の撮影が初めてだった。
「那智 ! ユウよ!」
楓は一人で来ていた訳ではないようで、連れて行かれたテーブルでは糸目の青年が一人座っていた。
「へえ、珍しいじゃん。ユウ、楓に掴まったな」
何よその言い方と膨れる楓に言葉の通りだと青年はひょいと肩を上げる。
那智。楓と同じく同じ事務所に所属しているモデルだ。真ん中で分かれ額の出た髪は灰色がかっていて毛先に向かって淡い。
その髪の奥から切れ長の細い瞳が気だるげに夕を見る。楓が猫なら那智は狐と言ったところか。
「楓さんに誘われたんじゃ断れませんから」
「あー、ユウまで! 酷い男達ね」
大袈裟にそう言って那智の向かいに座る楓に苦笑いを浮かべ、夕もまた那智の隣の席に座る。
那智とは同期で何度か顔を合わせた事もあるが、これと言って親しい訳ではない。遠くに住んでいるからというのもあるが、互いが互いに声を掛ける程興味がなかった。
けれど噂というのは興味がなくとも耳に入るものだ。那智は女遊びが激しく、性にルーズだというのがもっぱらの噂だ。
そしてそれもあながち嘘ではないのだろう。事務所内で女性を誑かしているところを見た事がある。
この間もそうだった。
「お二人はよく一緒に食事するんですか?」
「よくって訳じゃないけど、同い年だから自然と話す機会は多いかな? ね、那智」
「楓が勝手に話し掛けてくるだけだけどな」
澄ました那智の態度に楓がぷりぷりと頬を膨らます。二人のやり取りを見ていれば二人が気安い間柄なのは手に取るように分かる。
テーブルにはパスタやサラダが運ばれ、それぞれフォークを持ってパスタを先端に絡め取り口の中へ運ぶ。楓は食事制限をしているのかサラダとミネストローネだけだ。那智は誰かとメールでもしているのかスマートフォンが震える度に弄っている。
「え、ユウ明後日帰るの?」
パプリカにフォークを差しながら楓が顔を上げると、夕ははいと頷く。一週間ある夕の滞在期間はもう終わりへと近づいていた。
この数日間、ずっと脳裏に焼き付いて離れないのは平然とした様子で涙を落とす利人の顔。あの日以来利人とは会っていない。夕はキスした事を後悔していた。
何も手を出すつもりはなかったのだ。とりあえず今は少しずつ利人との距離を縮めていけたらいいとさえ思っていた。
(俺全然落ち着けてないな)
零れるは溜息。
柔らかく笑う利人を見ていたらつい身体が動いてしまった。ここで気まずくなっては元も子もないと、咄嗟に悪戯っぽく笑って冗談にしてしまったがまさか泣かれるなんて。
思えばこれまでも似たような事を利人にしてはこちらの期待あるなしに関わらず大事にならなかった利人だ。今回も「またお前はそんな事をして」と呆れて終わるのではないかと思いもしたが、事態は思わぬ方向へ転がってしまった。
その日の夜短いメールを交わしたがお互いキスについては触れず終い。会えるかと思い『オータム』を覗いたりもしたが、結局顔を合わす事はなかった。
けれど当然、このまま帰る訳にはいかない。
ともだちにシェアしよう!