120 / 195

21 害獣対策、功を奏さず

 同じ大学構内を歩いているとはいえ、利人と那智とでは学部も学年も全く異なる。  同じ事務所である夕ですら東京へ行っても那智とはたまにしか会わないのだ。狙ってこない限りそう何度も顔を合わせる事はないだろう――そう思っていた矢先、利人の一言で夕は深く肩を落とす事となる。 「藍、藍」  こそりと声を潜めて自分と同じ顔をした弟の袖を摘まむ兄、紅。藍は卵焼きを口に入れるのを止めると視線を彼へ向けた。 「どうしたの、紅」 「夕君、元気ないけど何かあった? 具合悪いんなら保健室連れてった方が良いんじゃない?」 「紅は優しいね。でもその優しさは俺だけにしておいてね、白岡は放っておいても死なないから」 「藍、聞こえてる」  屋上で弁当箱を広げる鴉取兄弟を横目に夕はむすりと唇を尖らせる。藍の事は普段苗字で呼び慣れているが、紅もいる時はどちらも『鴉取』でややこしい為『藍』と名前で呼んでいる。 「どうせ利人さん絡みだろ」  だから心配要らないのさと言う藍に夕は顔を顰めた。図星だ。  あれから僅か数日後利人からのメールで『那智』という忌まわしい名前を再び目にしてしまった。  その報告は何と同じ講義を取っていたというもので、那智の方から気がついて声を掛けられたんだとか。 『何か話したんですか』 『この間はどうもーとか挨拶程度。明るい子だよな』  文末には笑顔の絵文字が添えられていて、メールを読む限りは大して困ってなさそうでほっとする。  しかしどういう状況だったのか知らないが、那智にしては随分社交的に感じてもやもやと居心地の悪さが消えない。相手が女ならともかく、ちょっと会った程度の男でもわざわざ声なんて掛けるような人間だったのか。  これだけ見ると夕の中で那智という人間は相当碌でもないように見えるが、夕がこれまで見聞きしてきた那智像というのはそんなものだ。利人の話を聞いてからというもの、夕の中で那智のイメージは更に最悪なものとなっている。 『あと今日のノートコピーさせてくれって言うから貸したわ』 『いいように使われてませんかそれ。それに那智さんも出てたんでしょ? あの人寝てたんですか?』 『あいつ終わりかけに来たみたいだから』  溜息と共に額に手を当てた。やはりそういう事かと那智に腹が立つ。利人の優しさにつけ込んで利用するその図々しさは万死に値すると言っていいだろう。  そして利人には那智が近づいたら逃げろと言ったのにやはり出来なかったようだ。まだ利人にはそれ程の危険は感じていないように見える。けれど、今回の事で再確認した。那智はやはり利人の害になる。  とはいえこれ以上は夕がどうこう言っても利人を困らせるだけだろう。何を言っても利人は「平気だよ」の一点張りだ。那智がどんな好意的な態度を取っているのか知らないが、あまりしつこくしては最悪那智を庇いかねない。それはあってはならない事だ。 「藍、夕君大分思い詰めてるみたいだね。珍しいなあ」 「叶わぬ恋に必死なんだよ。白岡はあれ位悩んだ方が丁度良いんじゃない」  こそこそと双子が声を潜めて話している。叶わないとはまだ決まってない。余計なお世話だ。 (直接那智と話すしかないな。今度の東京行きで会えるかもしれない。話して通じれば良いが……)  ふう、と溜息を吐いてペットボトルに口をつける。  分かっている。ただ那智に嫉妬しているのだ。  那智だけではない。達也、周藤、樹……利人の周りにいる人間誰もがその点において信用出来ない。羨ましくて妬ましい。  頭の上を通過していく風がひんやりと夕の頭を冷やした。 (会いたいな)  脳裏に利人の綻んだ顔が浮かぶ。  利人に贈った革のブレスレットは先月最後に会った日の前日に購入したものだ。まさか会えるとは思っていなかったからプレゼントを用意するつもりはなかったものの、利人の誕生日が近づいている事は彼と再会する前から気づいていた。 だから博物館で会う約束を取り決めた時、絶対用意して行こうと思ったのだ。  そっと胸元に手を当てればその下には利人から誕生日プレゼントにと貰ったお守りが入っている。  この利人との僅かな繋がりをずっと捨てられずにいた。それでも一年もの間机の奥に仕舞い込んでいたそれを再び取り出す気になったのは利人と再会したからだ。  お守りを貰った翌年、利人の誕生日を祝う事は出来なかったけれどそれもやっと果たせた。 (利人さん、つけてくれるかな)  それを目にした時、これだと思った。溶けるような優しい色合いのキャメルはきっと利人によく似合う。利人がそれをつけているのを想像するとふっと口元が緩んだ。  少し申し訳なさそうに、それでも「ありがとう、嬉しい」と通話口で言ってくれた利人。  これは想像だが、恐らく利人はそれをあまり使わないのではないかと思う。何となくだが、数回程度身につければ良い方で後は引き出しにでも仕舞うか部屋の飾りになるか。現実的に考えるとそんなものだろう。  けれどそれで良い。たまにでも良いから、それを見て自分を思い出してくれたら――なんて。  思考の旅も終わりに近づき弁当の残りを平らげる。忙しい母に代わりお手伝いさんがつくってくれたものだ。 もうわざわざつくらなくていいと言ったのだが、栄養が偏るからと毎日欠かさず持たせてくれている。夜、仕事だ何だと外食が増えた為健康を気遣っているのだ。と、母が言っていたと聞いた。勿論私もですと彼女は笑っていたが。  ちらりと双子を見ると、弁当を食べ終えた彼らは何やら紙切れに向かって何事か話していた。その紙切れには『進路希望』と記されている。勿論藍と同じクラスである夕にも配られたものだ。  夕は今モデルの仕事やジム通い、家業である華道に加えて塾にも通っている。  大学進学を意識してのものだが、どの大学、どの学部を目指すかはまだ検討中だ。 (利人さん、今四年だよな)  卒業後の進路はまだ聞いていない。公務員になりたいといつしか言っていた事を思い出す。  そうしたら、こっちに帰って来るのだろうか。 (俺は、どうするんだろう)  大学には行く。けれどその先は?  母の跡を継ぐ為に華道家として邁進? (でも、それって……)  拳をそっと握る。  憂いを帯びた黒い瞳は遠く青い空を見つめていた。

ともだちにシェアしよう!