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22 院試説明会〈1〉
利人が未来の自分に求めるのは安定した仕事に就く事。贅沢な暮らしは出来なくてもいい。慎ましくも健康で平穏に暮らす事が最優先だ。
利人がそう思うようになったのは幼少の頃に理由がある。今でこそ母が再婚してたまに旅行も出来る位に家計も潤っているが、幼い頃は病死した父が残した会社の借金を抱え貧しい生活を送っていた。
再婚相手である今の父が協力してくれたお蔭で借金はまもなく完済したが、それは実父が経営下手だった為に抱えた借金だ。
利人が遊びを控え部活にも所属せずアルバイトをするようになったのはそのお金を新しい父へ返す為だった。彼はそれを拒んだが、最終的に半分返すという事で折り合いをつけそれも大学在学中に払い終えた。
けれど利人のアルバイト三昧の日々はそこで終わらない。お金で家族に迷惑を掛けたくないという意志の強い利人は家に生活費を入れる事は勿論出来る限り自分の事は自分で工面する為にそれはよく働いた。
その上で学業も怠らないように努めていたのだから身体だけは丈夫だったのだ。よくそんなに働いていられるものだと羽月には感心を通り越して呆れられたものだが、利人にとっては働く事こそ安堵感を得る術でもあった。
そうして生きてきたから夢らしい夢を抱く事はなかった。夢を叶えた人を素直にすごいと思うし、夢に向かって頑張る人を応援する気持ちもある。けれどそれは結局他人事であって、自分もそうしたいとは思わなかった。
利人には大学を出て立派な社会人になるという現実的な目標がある。それ以外に特別何かをやりたいと思う事などなかったのだ。
雀谷利人、東陵大学文学部人文社会学科考古学専攻四年次。殆どの同期より先に二十二歳になった。
高校までの頭に詰め込むだけの勉強と大学で学ぶ専門的な学問とでは学ぶ内容もスタイルも全く異なる。興味のある分野を深く研究するのは利人にとって良い刺激となった。
より一層学問に打ち込むようになると大学が忙しくてアルバイトに入る日が少なくなる程だ。
掛け持ちをしていると言っても博物館のアルバイトは経験目的のようなもので、月に数回程度呼ばれるのみだ。これだけでは心許ない収入だが、その辺は大きな浪費もなく残ったバイト代を堅実に貯金していた過去の自分に救われていた。
けれどいくら熱心に勉強をしてもそれはそれ、これはこれ。専攻分野に関連した仕事に就くのが一番良いのだろうが、利人にとってそれは優先度の高い事ではない。一般企業への就職でも勿論良いのだが、どうせなら地元に帰って地域に貢献出来る職員を目指したい。何より潰れる心配がない。だから公務員試験の勉強だって早めに始めた。
なのに、どうした事だろう。
就職という言葉が現実味を帯びてきた頃から得体の知れない靄が邪魔をする。やるべき事は決まっていて、悩む事なんて何もない筈なのに。
自室の机の上へ向かっていた筈の目は無意識に上へと上がる。ずらりと並ぶ様々な大きさ、厚さの本。
『墓考古学』『暮らしと考古学』『博物館学』『博物館教育論』『学芸員を目指す人の生涯学習概論』――するり、と本を手に取りページを滑らせる。
集中しなければならないのに、どうしてか気の進まない自分がいた。
***
「あ」
思わず声に出すと、目の前を通り過ぎようとした女子学生はついと顔を上げた。全体の雰囲気は大人っぽいがよく見ると顔立ちは幼く高校生の制服を着ていても違和感はないのだろう。
「賀茂居さん、こんにちは」
「……こんにちは」
リカは眼鏡越しに利人を見、間を置いて血色の良い唇を開く。
エレベーターの前を通り過ぎ階段へ向かうリカに利人も続いた。彼女の斜め後方を歩く。
これから周藤の研究室で院試説明会が行われる。少しでも興味があればという周藤の言葉に甘えて何となく来てしまった。リカもそれに出席するのだろう。人気の少ない中階段を歩く足音だけがやたらと耳に響いた。
周藤の研究室は三階の奥にある。扉をノックするが返事はなく、人の気配も感じられない事からまだ戻っていないのだろうと思われた。他の研究生が来ているかもしれないと思ったがその姿もない。利人は研究室の前の廊下でリカと並んで周藤を待った。
ただ黙っているのも気まずく、話し掛けようとしてそういえばと先日から抱いていた小さな疑問を思い出す。
「賀茂居さんは那智と友達?」
そう口にしてから、三つも年が離れているのに『友達』と訊くのもおかしかっただろうかと思い当たる。二人は言葉こそ交わしていなかったが、那智の方はリカを知っているようだった。
リカはちらりと利人を見た後ああと長い睫毛を伏せる。化粧っ気のない素の睫毛は細く目元に影をつくった。
「賀茂居那智なら、私の従弟だけど」
さらりと告げられたその言葉にえっと思わず声が漏れる。
「従弟?」
それは予想していなかった言葉だ。姉弟ではないのだから似ていなくても不思議はないが、先日の二人の様子があまりにも素っ気なかったものだから大した知り合いではないのだろうと思っていた。いや、それともだからこそなのか。
「彼が何か?」
「ああ、ううんちょっと気になっただけ。そうか、従弟か」
苦い記憶も新しい糸目の男、那智。
先日声を掛けられ頼まれるまま善意でノートを貸したものの、すぐ済むだろうと思いきやそのノートはまだ返って来ていない。夕には余計な心配を掛けさせたくなくて明るく振る舞ったが、やはり彼はちょっと苦手だ。
そろそろ指定の時間だが周藤も他の研究生もまだ来ていない。どうやら、院試を視野に入れているのはここにいる二人だけのようだ。
(いや、一人だけ、か)
ふと横目で視線を下ろすと艶のある黒々とした髪が視界に留まる。癖ひとつない綺麗な髪だ。
「賀茂居さんは院を目指してるの?」
リカは俯いていた顔を少し上げ、訝し気に黒い瞳を利人へ向けた。
「そうじゃなきゃ来ない。そっちもそうでしょ?」
何を当然の事を言っているのだと言いたげなその瞳に一瞬言葉が詰まる。
違うと言おうとした唇は止まり、辛うじて再び動いた唇は別の言葉を紡いだ。頭の片隅に残っていた言葉がふっと蘇り、それはそのまま利人の小さな疑問となる。
「周藤先生がいるから?」
リカが眉を顰めるのを見て、しまったと思った。質問してばかりで不快だっただろうか。
答えてはくれないかもしれないと思ったが、リカはそっと口を開いた。
「一理ある。周藤先生が碌でもない教授で私の求めるものがここになかったなら別の大学を受ける事になるから」
「確かに。周藤先生の下で学べている俺達は運が良かったんだな」
リカの答えに満足するように頷くと彼女は何か言いたげな視線を向けてきた。それに気づいて利人は首を傾げる。
「何?」
「別に。てっきりからかわれたのかと思ったから」
リカの意外な言葉に目を丸くした。
「何で俺が賀茂居さんをからかうの?」
変な事を言うものだ。リカは少し困ったように眉を寄せると目線を流して小さく唇を開く。
「『皆』はそうだから。私が周藤先生に気があるって」
「えっ、そうだったの⁈」
思わず大声を出すとリカに軽く睨まれ小さくごめんと謝る。彼女は静かに息を吐いた。
「違う。私はそんな馬鹿な理由でここにいない。先生そのものには興味ないし」
「はあ……」
随分言い切るものだ。周藤の男前な人柄に好感を抱いている利人としては少し悲しい。
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