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27 電話のその後
自室の扉を開くとルームメイトとの共有エリアであるダイニングスペースに出る。
そこには風呂上がりなのか首にタオルを掛けマグカップにコーヒーを注いでいる達也がいた。
「丁度良かった。利人さんもコーヒー飲みます? カフェインレスの残り貰ったんすよ」
「おー飲む飲む。カフェオレにする」
今日の『オータム』のバイトのシフトは達也だったから畑山が持たせてくれたのだろう。
利人は自分のマグカップに半分牛乳を注ぐと電子レンジに掛けた。コーヒーの香ばしい薫りに牛乳の甘い匂いが重なる。
「楽しそうでしたね。大学の子っすか?」
利人のマグカップにコーヒーを注ぎながらそう口を開く達也に利人は違うよと言って笑った。よくつんつんと毛先を遊ばせている達也の金髪はぺったりと頭の形に沿い、目元を隠しがちな前髪は掻き上げられ額が露わになっている。達也は顔が怖いと言われがちだが、こうして目元がよく見えた方が瞳の鋭さが軽減される気がする。
「ごめん、うるさかったか?」
「そんな事ないっすよ。誰かと話してるのかなって感じの声が薄っすら聞こえる位なんで。相手の子とはイイ感じなんすか?」
椅子に座りにやりと唇を曲げる達也に利人は「うん?」と目を丸く見開いてカフェオレを啜る。やっぱりまだ苦いな、と砂糖を二さじ加えて利人も椅子に座った。
「そうだな。良い感じ、かな?」
「最近よく電話してるのってその子っすよねえ? いやあ、こんな事言うのも変な話なんすけど利人さんも人並みに恋愛するんすね」
「……うん?」
会話の内容がおかしい事に気づいて達也を見つめるが、そんな利人の様子に気づかないのか達也はコーヒーを啜りながら言葉を続ける。
「あ、気ぃ悪くしないでくださいね? 俺嬉しいんすよ。利人さんすごく真面目じゃないっすか。それでずっと浮ついた話ないし、野郎同士でキスした位でぶっ倒れるでしょ。いや嫌なのは分かりますけど」
黒歴史を掘り起こされ心の中で失笑する。頭では大した事ではないと分かっていても心と身体が拒絶するのだ。
これはもうどうしようもない。何より克服しなければならないような事案でもない。あんな事何度もあって堪るか。
「利人さんは恋愛とか性的な事には興味ないのかと思ってたんで。利人さんも男なんだなって」
失礼ですよね。達也はそう言って肩を揺らすが、その一方で利人はぎくりとした。
「……馬鹿だな。何だよそりゃ」
「言葉のあやっすよ。だって利人さんちっとも女の気配ないから」
そういうお前はどうなんだ、と言い掛けて口を噤む。大学で顔を合わす機会の少ない達也がどんな異性と親しくしているかなんて知る由もないが、きっとそれは危ぶむような関係ではない。
「達也は相手いるもんな」
「和希は親友の延長って感じっすけどね。何だかんだ離れらんないんすよ。まあ、あいつ巧いし」
いつだか沙桃が言っていた。達也は和希に落とされている途中なのだと。
けれどこうして見ている限り、達也は十分和希を好きなんじゃないかと思った。
「電話の子は同い年っすか?」
「ううん、年下。高二になったな。ていうか」
「えっ女子高生⁈」
利人さんやるなあ、女子高生かあと溜息を吐いている達也に利人はやはりそうかと項垂れた。
「男だよ男。やっぱりお前勘違いして」
「男⁈ 利人さん男苦手なのに⁈」
「だから違うって! 夕だよ馬鹿!」
何だユウ君か、とやっと誤解が解かれほっとする。一日の終わりにどっと疲れてしまった。
「よく楽しそうに電話してるからてっきり。何だ、すみません一人で突っ走っちゃって」
「分かってくれたなら良いんだ」
残り少ないカフェオレを一気に飲み干す。安心したところでそろそろ部屋に戻るかと席を立つが、達也にじっと視線を向けられている事に気づいて眉を顰めた。
「俺の顔に何かついてる?」
「いえそうじゃなくて。利人さんとユウ君って、本当にただの知り合いっすか?」
ごくりと唾を飲み込む。どうして、と紡ぐ声が少し掠れた。
「いやあ何となくっすけど、ただの先輩後輩にしちゃあユウ君の利人さんを見る目が何かこう、怪しいっていうか。こりゃあ利人さんユウ君に抱かれたなーなんて」
ごとん、と手元からマグカップが滑り落ち床に叩きつけられる。硬直し青ざめる利人に達也も青ざめた。
「冗談……だったんすけど……マジっすか」
「ま、まじじゃないし……はは、何言って」
そう言いながらマグカップを拾おうとしてまた落とす。我ながら動揺し過ぎだ。
「利人さん嘘下手過ぎでしょ。ちょっと大丈夫っすか? 別に俺言いふらしたりなんかしないっすよ。……あー、でも何か色々納得っすわ」
「な、何が?」
動揺のまま改めてマグカップを拾い、達也もしゃがみ込んで汚れた床を拭く。
「ユウ君が利人さんにキスした事とか、他の男は駄目だったのにユウ君だと平気だった事、とか」
ティッシュで床を拭きながらそう口にする達也に利人はどくどくと心臓の鼓動が速まるのを感じた。マグカップを握る手に力が籠る。
「どうしてそれが納得なんだ? 達也には何か分かったのか?」
あの時のキスはただの冗談だと言っていたし、元々夕には何度もキスをされた事があるのだから平気でも何らおかしくはない。
(あれ)
ふと、何か引っ掛かるものを感じた。
「それ本気で言ってるんすか?」
ずきずきと胸が痛い。落ち着かなくて苦しい。
「利人さん、ユウ君が好きなんじゃないっすか? だからユウ君以外の男は嫌だったんじゃ?」
キスをするだけでどうしてこんなに気持ち悪くなってしまったのだろうと思っていた。
そしてどうして夕だとやっぱり何ともないのだろうと思っていた。
でも何ともなくなんかなかった。
あの時涙が出たのは何故だ。ほっとしたのは何故だ。
(キスが嫌いになったんじゃなく、夕じゃないと嫌だった?)
「利人さん、ずっと『こう』じゃなかったんすよね?」
かあ、と頬が紅潮する。
「知らない。俺、夕としかした事なかったから……」
心臓の音がうるさい。身体が熱い。
夕が好き?
――俺が?
「それ最初に言ってくださいよ! 何だ、やっぱりそういう事なんじゃ」
「達也」
はい、と達也が返事をする。
「変に勘ぐるのはやめろ。夕はただの友人だ」
そう吐き捨てるように言って飲み干したマグカップをシンクに置いて水を貯め部屋に戻る。名前を呼ぶ達也の声が聞こえたが聞こえていない振りをした。
ばたんと扉を閉め、凭れ掛かったままずるずると座り込む。
(これはきっと勘違いだ)
両手で顔を覆いぎゅっと目を閉じる。
かつて夕に好きだと言われた。きつく抱きしめられ、唇を重ねた。
それは麻薬のように身体中に染み込んでいつまで経っても消えてくれない。
夕を酷く突き放したのは自分なのに。
もうそんな風に想われてはいないのに。
そう思う事こそがおこがましいのに。
どうして今更こんな事を考えてしまうのか。それはきっと、自分が弱いからいけない。弱いから寂しくなる。寂しくなるから誰かを――過去の温もりを求めようとする。
ずくりと身体の熱が重たく下がっていく。
(まただ)
一人きりの部屋の中で息を潜める。薄い唇から浅く零れる息は熱い。
こんな自分が堪らなく嫌いだ。
利人は手首に巻かれたブレスレットをきつく握りしめた。
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