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28 利人の憂鬱
世の中誰とでも仲良く出来たなら幸いだが、生憎世界はそれ程優しくはない。
利人の中で他人は『好き』『苦手』にカテゴライズされるが、基本的に『苦手』だと感じる人にも良いところはあると考えている。だから『嫌い』な人は滅多にいない。
嫌悪感を抱く相手には苦手なだけと意識するようにしているというのもあるだろう。『嫌い』と拒絶するより『苦手』だと思う方が気が楽だ。人の悪口を言う事を好む人間も中にはいるが、利人は自分がそうするのは苦手だった。
けれどそんな利人にも顔を合わせたくない人間がいる。
「ああ、聞いた? そうそう従姉。あの年で化粧っ気ないし貧相な女でしょ。そうだ、引き合わせてあげるからデートしてあげてくれない? あいつのメアド知らないなら教えるし」
「いやいやそれは駄目だろ、人のメアド勝手に聞く訳にいかないよ。それにデートとかそういうの本当にいいから。賀茂居さんも迷惑だろうし」
困り果てる利人に那智はがっかりしたように眉を下げる。
「利人くーん、そんなんじゃいつまで経っても童貞卒業出来ないよ?」
折角良い機会あげようとしてるのに、と唇を尖らせる那智は両隣にいる女子学生と言葉を交わしてはくすくすと笑う。あろう事か女性の前で侮辱され利人は顔が真っ赤になった。
初対面の印象は最悪。次に会って話をするとますます不愉快になったこの賀茂居那智という男。『苦手』の枠を超えて今にも最下層に届いてしまいそうだ。
失礼でおちょくるような発言は出会った頃の夕もそうだったし、その夕と今こうして親しく話しているのだから那智とも案外上手くやれるかもしれない――なんて思った少し前の自分を諭してやりたい。上には上がいるのだと。
今すぐここから離れたいところだが如何せん利人には離れられない理由がある。
「そんな事より、ノートなんだけど」
「わーかってるって。電話で訊いてみるからちょっと待ってて」
ウィンクを飛ばされげんなりと肩を下げる。
「ねー那智ぃ、早くカラオケ行こーよぉ」
「ちょ、この人何かキモくない?」
派手な外見をした女達の口からくすくすと笑い声が零れる。自分の容姿に自信がある訳ではないがキモいは流石に傷つく。
「利人君、ノートあったって。道理で探しても見つからない訳だよなあ、知り合いんとこにあるんじゃねえ。ノート見つかって良かったね」
那智はやたら派手なケースのスマートフォンを耳から離し悪びれもせずにけろりと言い放つ。利人は辛うじて微笑みを顔に張り付けて「そうか」と返した。良かったね、ではない。物凄く他人事のようだが人の大事なノートを失くしたのは那智、お前だ。
先週数日振りに再び顔を合わせた那智に突然声を掛けられノートを貸してくれと両手を合わせて懇願された。
それ位ならと渡したもののノートが返らぬまま迎えた次の講義の日である今日、席に着く那智に声を掛けるとその口から発せられたのは「忘れてた」そして「失くした」だ。これだけでも唖然とするが那智の手元には新しく出来た友人からコピーさせてもらったというノートの写しが置かれているのだった。
善意を踏みにじられた利人はショックながらも新しいルーズリーフを出して講義を受けた。まだ謝ってくれていたならここまで傷つく事はなかっただろうが、那智の全く悪びれない「ごめん」はあまりにも誠意に欠けるのだ。
そして講義の後知り合いの家かもしれないと那智が言い出しやっとその通り見つかったという訳だ。
出会った頃の夕が可愛く思える。
多少意地悪な事を言われても夕の行動には意味があり、納得の出来るものだった。
那智とは違って。
「利人君、今から暇?」
「五時からバイトだけど」
「おっけおっけ。めぐちゃん? 本人行くからよろしく頼むよ。赤茶髪でジーンズに黒のカーディガン、青のリュック」
利人の言葉を最後まで聞かずに通話相手と話す那智はじろじろと頭からつま先まで利人を見下ろして言葉を紡いでいく。
「あとマスク」
今、利人の口元は白いマスクで覆われている。ごほ、とひとつ咳が出た。
じゃあと言って通話を終えた那智と目が合うと細い目がにまーと更に細くなる。嫌な予感しかしない。
「めぐちゃんが今日取りに来いって言うんだけど俺これからちょっと用あるからさ。悪いんだけど取りに行ってくんない? 大丈夫すぐ終わるしめぐちゃん十分位でこっち着くって言ってるから」
「え。まっ、ちょっと待てって!」
正門で待ってれば良いからと言い残して那智は聞く耳を持たずに女達を携えてさっさと行ってしまう。めぐちゃんって誰よぉ、と機嫌を損ねたような声が遠くで聞こえた。
(また女の名前……)
はあ、と溜息が漏れる。那智の上手いところは相手に口を挟む隙を与えず自分の都合を押し通すところだ。利人が鈍臭いと言えばそれまでだが。
時刻はもうすぐ午後三時。バイトまでには間に合わせるにしても急な話だ。それでも那智とめぐちゃんとやら、どちらの連絡先も手元にない為待ち合わせ場所たる正門へ行くしかない。
(大体用ってカラオケだろ。人から借りたの失くした挙句それを取りに行かせるってどういう事だ)
夕が容赦なく警戒していたのはこういう事を見据えての事だったのだろうか。会話しかしていないのにどっと疲れて身体が重い。これからは気を付けよう、本気でそう思った。
(それにしても、めぐちゃんってどんな人なんだ? 俺も知ってないと最悪会えないだろ)
若干苛々しながらも正門の外側に立った利人はそれらしい人物を待ったがまだ誰からも声を掛けられていないし人を探しているような女も見当たらない。多分。
呼吸をする度にマスクの内側が籠る。何もする事がないと余計それが気になってしまってますます落ち着かない。
マスクを指先でつまんでふうと息を吐いた。マスクはあまり好きじゃない。けれど昨日から時々咳が出始め喉も痛み出した。まだ声が枯れる程ではないが、これ以上悪化させない為にも対策は必要だ。――と、以前店長に言われた事がある。
(身体だけは丈夫だったんだけどなあ)
年かな、なんて遠い目をしていると目の前に黒い車が止まった。助手席の窓が下がり運転席から身を乗り出した男と目が合う。
「あれ、あんた……」
「あ、どうも」
利人はぺこりと軽く頭を下げる。その男は夕の撮影を見に行った時に写真を見せてくれたカメラマンだった。特徴的な癖のある厚い髪と無精髭は見覚えがあるどころではない。
「何だあんただったのか。さ、乗って」
「え? いえ、俺これから人と会う約束が」
戸惑う利人に男は困ったようにふっと苦笑いを浮かべる。
「僕那智の伯父の後藤恵介 って言うの。那智にはめぐちゃんなんてふざけて呼ばれてるんだけどな」
利人は「あっ」とマスク越しに口元を押さえた。
従姉に伯父。気づかないうちに会っていた那智の血縁二人目だ。
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