128 / 195
29 榛色の青年〈1〉
車が走る事十五分。着いた場所は古びたアパートだった。
部屋の中は空気が籠っていて服やらゴミやらで散らかり放題。後藤はそれらの間を跨いで渡り、固そうな窓を抉じ開けた。
「探してくるから適当に座ってて」
「すみません。お仕事帰りですよね?」
「いいよ。つかあいつが全部悪いしな。あんたも災難だよなあ、あれは昔からああなんだ」
そう言って顔を顰める後藤に釣られるようにして、ははとから笑いが漏れる。本当に災難だ。
立っているのも気まずく、言われた通りテーブルの近くに座った。そのテーブルの上も飲み掛けのペットボトルや蓋の開いたカップ麺、書類が雑然と置かれている。利人も部屋を散らかす事はあるがこれ程ではない。
それでなくともこの部屋は物が多い。見渡すと広い棚には仕事道具らしき機材や小物、ファイルがひしめいていて今にも崩れ落ちてしまいそうだ。
「ノートってこれだよね」
隣の部屋から戻って来た後藤に一冊のノートを差し出される。開くと利人の筆跡が現れた。
「そうです。ありがとうございます」
ぺこりと頭を下げる利人に後藤はいいやと手をひらひらと振る。
用も済んだしまだ早いが喫茶店へ向かうかと腰を上げ掛けたその時、後藤の背後で大きな物音と共に物が崩れ落ちるのが見えた。
「あ、やっちゃった」
後藤はのんびりとしているが状況は悲惨だ。隣室では沢山の厚いファイルや本が雪崩を起こしている。比喩が比喩でなくなってしまった。
「て、手伝います」
「悪いねえ。積み上げ過ぎたな」
ははは、と笑いながら後藤は拾い上げた本を雑に棚の中へ戻していく。大雑把な人なのか本のタイトルが逆でもお構いなしだ。
「いえ……あ、」
片っ端から仕分けていた利人は伸ばした手を一瞬止めた。視線の先には開かれたアルバムがある。
夕だ。写真の中に映ったその人物を見て思わずそのアルバムを手に取った。
――が。
(夕、……じゃない?)
ぱっと見た感じは似ているがよく見るとその青年は夕ではなかった。胸元を肌蹴させ気だるげに横たわるその姿は艶めかしくて思わずどきりとする。
けれどそれ以上に利人の胸はざわついていた。視線を走らせ他の写真を見るとそれは確信に変わっていく。
骨張った薄い身体。肌に浮いた鎖骨、あばら、腕の血管。けれど決して貧相ではない。すらりと伸びた手足もシャープな輪郭も美しい。どこかアンバランスにも見えるのに、それは、それこそが、とても綺麗だった。
榛色 ――色素の薄い、茶色がかった鼠色に散る髪の隙間から鋭い瞳が利人を見る。
そこにいるのは知らない青年。けれど知ってる。
「白岡教授……?」
今にも消えてしまいそうな程儚い瞳をしたその青年に白岡霞の面影が重なった。
けれど写真の中の青年は穏やかで優しい瞳をしていた記憶の中の彼とはまるで他人だ。
「違う。鷲宮 だ」
影が落ちたかと思うとひょいとアルバムを取り上げられ後藤の手に移る。写真を見つめた後藤の目が懐かしそうに細められた。
「名前、『霞』さんではないですか」
心臓が軋む。他人かもしれないと思いながらもきっと本人に違いないと確信している自分がいた。
その証拠に、後藤はアルバムから利人へ視線を移し僅かに目を見開かせる。
「霞を知ってるのか」
喉がちりちりと痛む。
まさかこんな形で生きていた頃の――自分と同年代の白岡に会えるなんて誰が予想出来ただろう。
「白岡霞さんは西陵大学の教授でした。そのゼミに俺はいたんです。夕の父親ですよ」
無意識に手首のブレスレットに触りながらそう説明すると後藤は顎を触って興味深そうに口を開く。
「ユウが霞の息子? まあ似てるっちゃあ似てるけど。しかし信じられないな、まさかあの霞が結婚して子供までいるなんて。『でした』ってあの人今何やってんの?」
ごく、と唾の塊を飲み込み喉がずきりと痛む。
思わず顔を引き攣らせた利人はゆっくりと緊張を解き唇を開いた。
「亡くなりました」
ぴちち、と鳥の囀りが聞こえる。
それはもう一年以上も前の事だ。気持ちの整理はついている。けれど風邪で弱った肉体は連鎖反応のように過去の心の痛みまでもを無理矢理引きずり起こしてしまう。
まるで肌を刺した小さな小さな棘に毒が潜んでいたかのように、それは少しずつ身体を侵していく。
後藤は利人に向けた視線を写真へ戻し、指先でそっと触れた。
「そうか。とうとう逝っちまったのか、あの人」
その言葉に違和感を覚えた利人は眉を顰めて立ち上がる。あの、と言い掛けた言葉は衝撃的な後藤の言葉に遮られた。
「自殺?」
白岡を侮辱するとも取れるその言葉に利人は戸惑いと同時に身体中の血が熱く沸き立つのを感じた。
「どうして、そんな事言うんですか」
瞬時に沸き立つ怒りは途方もない悲しみに変わる。
どうして白岡が自ら命を絶たなければならないのか。
どうしてそんな酷い事が言えるのか。
後藤はアルバムを開いたまま傍らのベッドの上に置きジーンズのポケットから煙草を取り出し火をつけた。
「そう怖い顔しなさんな。違ったならいいんだ」
後藤は煙草を咥えるとふうと天井に向けて紫煙を吐き出す。煙草の匂いがマスクを通して遅れてやって来た。
「僕の知ってる霞はいつも死に場所を探してるみたいだった。生気がなくて、誰といても何をしてもただ淡々と過ごすんだ。けどだからこそ生への執着というか憧れがあるんだろうな。霞はその歪さがとても美しかった」
後藤のその言葉は利人に衝撃を与えた。
身体が凍りつく。
いつも飄々として微笑みを浮かべていた白岡からは考えられないような深い闇。
(いや)
白岡は確かに苦しんでいた。そしてその片鱗に利人は触れた。
嘘だと拒絶する事は簡単だろう。真実を語れる人間はもういない。しかしきっと後藤の言葉が嘘ではない事、それは何よりこの写真が雄弁に語っている。残酷な程に。
見れば、写真を通して白岡を見つめる後藤の瞳には懐かしさと共に複雑そうな何かが滲んでいる。ただの撮影者とモデルだとは思えない空気がそこにはあった。
ともだちにシェアしよう!