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38 夢、暴かれる〈1〉
気づけば利人は博物館にいた。
白いシャツに灰色のカーディガン、黒のチノパンツ。勤務中によくしている恰好だ。首にはスタッフカードもぶら下がっている。
しかし辺りを見回しても人は誰もいない。開館前か閉館後なのだろうか。人の気配のない館内を歩いていると開けた空間に辿り着く。
何気なく顔を上げると利人の身体は硬直した。
そこに飾られた大きなパネルには若い頃の白岡の姿がくっきりと写し出されている。
圧倒される。その鋭い眼差しに、儚い佇まいに息を飲む。
五感のすべてをパネルに奪われているその時、こつりと背後で音が生まれた。
「恥ずかしいね。まさかそれが君に見られる事になるなんて」
突然降り掛かるその声にびくりと心臓が跳ねる。そして同時に聞き覚えのあるその声にまさかと耳を疑った。
振り返るとそこには白岡が見慣れた姿のまま、皺の刻まれた目尻を細めて立っている。
「久し振りだね、利人君」
その顔も、その声も、その呼び方も。
あまりの懐かしさに暫く言葉を失った。
「きょ、うじゅ……?」
「そう。良かった、忘れられたらどうしようかと思った」
辛うじて言葉を紡ぐと白岡は冗談っぽくくすりと微笑む。その静かで品のある笑い方も以前と変わらない。
そうして気づいた。
「これは夢なんですね」
白岡は頷く代わりに目を細める。
現実ではどうあってもあり得ない。夢だと分かるとほっと肩の力が抜けた。そして苦笑いを浮かべる。
「夢に白岡教授が出てくるなんて初めてですね。今まで一度だってこんな事はなかったのに」
「君は僕を求めていなかったからね。わざわざ君の夢枕に立つ必要はなかったのさ」
そう口を開く白岡に利人は引っ掛かりを覚え眉を顰めた。
「教授をつくり出したのは俺なんですよね?」
「それは、どうだろうね」
断定を避けたその言い方に利人は戸惑うも、そうした返事が懐かしくて苦笑いを零した。そう、この人はこういう人だった。飄々としていて、自由気ままで。
白岡のそういうところにいつも振り回されて困る事も多かったけど、嫌味ではない柔らかさは決して嫌いではなかった。
「場所を変えようか」
白岡がぱちんと指を鳴らすと明るく広い空間は薄暗くて狭いそれへと変わる。
そこは西陵大学の旧文学部資料室だ。破れた革張りのソファも珍しい本が多く並んだ本棚も以前のまま。この古びた空気を利人はとても気に入っていた。
そういえば白岡の無茶な願いに付き合うようになったのもこの部屋の使用許可が魅力的で、それが切っ掛けなのだった。
それだけで白岡の夜の相手をするという提案に乗った訳ではないが、それが切り口となって白岡の口車に乗せられ結局は許してしまった事は事実だ。
ありえない提案さえ押し通してしまうその図々しさはいっそ清々しい。
けれどその部屋も、白岡が死んだ後建物ごとなくなってしまった。
まるで彼が連れて行ってしまったかのように。
「考古学は楽しい?」
ソファの肘置きに片肘を突き唇を開く白岡に、少しの距離を置いて同じソファの端に身体を沈める利人はきゅっと唇を引き結び膝の先を白岡へ向けた。
「とても。とても楽しいです」
一文字一文字はっきりと刻み込むようにそう言葉を紡ぐと、白岡は満足そうに頷く。
「良かった。君を送り出した甲斐があったね」
その言葉はじわりと利人の胸に沁み渡る。
ずっと心残りだった。伝えたいのに伝える術がなくて、ただ心の中に仕舞い込むしかなかった思い。
「ありがとう、ございました」
絞り出すように声に出し深く頭を下げる。
この言葉をやっと伝えられる。
ほとほとと涙にも似た熱い思いが身体の中に満ちていく。
白岡が死んだあの時、利人の胸はぽっかりと穴が開いたようだった。その穴を埋めるように新しい学問に身を投じるのは逃げだという事も分かっている。
それでもやっとその穴が満たされてきて、思う事は「これで良かった」という事だ。ただ純粋に今学んでいるこの学問が好きだと思える。
だから切っ掛けを与えてくれた白岡に、この一言だけはどうしても伝えたかった。正真正銘ただの自己満足かもしれないけれど。
「お礼なんていいんだよ。君にはずっと僕の我儘を聞いてもらっていたんだから」
顔を上げると、白岡は困ったように微笑んでいた。
この気持ちを伝えられたら良いのにとは思っても、夢で良いから会いたいなんて発想は不思議となかった。
だからだろうか。けど、それならどうして。
どうして、今更こんな夢を見ているのだろう。
(白岡教授の写真を見たから?)
後藤は白岡の若い頃について思わせ振りな発言をしていた。
けれどそれを今白岡本人に聞くのは躊躇われた。この男が利人のつくり出している幻だとしても、だ。
夢であっても何でも無遠慮に聞いていい訳じゃない。人には触れられたくない事のひとつやふたつ、誰にだってあるのだ。
「君は夢の中まで優しいんだね」
はっとして顔を上げると、白岡は楽しそうに目を細めて利人を見ている。まるで心の中を読まれているかのようでどきりとした。
「分かるよ。これは夢だから、君の心が手に取るように分かる。君が僕を尊重してくれている事もね」
ぎょっとして自分の耳を疑った。けれど白岡は硬直する利人の隙を突くようにソファの背もたれに手を掛け距離を詰める。
間近に迫る白岡から逃げるように反射的に身を引くも、ソファの端に座っている利人に逃げ場はない。
どく、どくと心臓の音が強く響く。
嫌な予感がした。
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