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45 卑怯者〈1〉
正直やり過ぎたという自覚はあった。
けれど熱に浮かされた利人の目はとろんと潤み身体はしなりと頼りなく、少し触れるだけで初心な反応を見せる。
むせ返るような色気に喉が鳴った。
相手は病人だと何とか理性を保ってはいたけれど、突然よそよそしくなった利人の反応ですぐに彼が勃っている事を悟る。
ひとりで必死に耐えている様があまりにもいじらしくて、あまりにも性的で、くらりと眩暈がした。興奮した。
結局は那智と同じ、ただの獣だ。本心では手を出す理由が出来た事を悦んでいるのだからどうしようもない。
けれどあんな事を言われて理性が吹っ飛ばない訳がないのだ。
どきどきするとか、おかしくなりそう、なんて。
そんな可愛い事を言われたら期待もする。もしかして好かれてるんじゃないか、とか。少なくとも近づいてきていると感じた。もう少し、もう一押しで落ちてくれると。
けれど落ちたのは自分だった。
天国から一転地獄行き。魔性か。天然の魔性なのか、末恐ろしいにも程がある。きっと利人には相手の心を揺さぶっている自覚などない。
(どうして、こんなにも上手くいかないんだろう)
手の中をするりと逃げていく。いつもそうだ。手が届きそうなのに次の瞬間にはずっと遠くへ離れていってしまう。
『触るな』
完全に怖がらせてしまった。拒絶された。
恐らく、利人は夕の気持ちに気づいただろう。あんなキスをしたのだ。もしかして、と思うのは自然というものだ。
利人の身体が敏感になっていて不安定だった事を知っていたのにそれにつけ込んだのは自分だ。例え想われていなくても、そう錯覚させられるんじゃないかと心の奥底で期待した。
余裕なんて最初からない。ずるくても、卑怯でも、それでもあの人が欲しい。
『利人さん、俺……』
貴方が好きです。浮かれて、そう続けそうになった。
これは利人が拒めないのを良い事に好き勝手した罰が当たったのだろうか。
***
「ふう」
シャワーの蛇口を締めぶんぶんと頭を振ると雫が飛び散った。汗はすっきりと洗い流され引き締まった身体の上を冷たい水が伝う。
鏡の中の自分と目が合った。全く眠れなかった割に肌は荒れていない。仕事に支障はなさそうだが、何とまあ腐った顔をしているものだ。
夕は鏡の中の自分を軽く睨みつけると、溜息をひとつ零してシャワールームを出た。
「あらユウ、おはよ」
時刻はまだ朝の六時前。利人はきっとまだ眠っているだろう。何となく独りになりたくて、給湯室でコーヒーを淹れて飲んでいるとそこへ楓が現れた。思わぬ人物の登場に軽く目を見張らせる。
「楓さん? こんな時間にどうしたんですか」
「ちょっとダンスの練習。の、前に相席良い?」
給湯室には気持ちばかりの飲食スペースがあり、楓はミネラルウォーターのサーバーから水を汲むと夕の隣に座った。
「聞いたわよ。ユウったら男連れ込んだんだって?」
早速のその言葉に思わずコーヒーを吹き掛けた。何とか堪えてごくりと飲み込むと、じとりと訝し気に楓に視線を向ける。
「一体誰からそれを?」
「那智」
もう広まってるんじゃないかと項垂れた。過剰に隠すつもりはないが昨日の今日だ。情報の早さにいっそ感心する。
「本当に仲が良いんですね」
皮肉も込めてそう口にすると、楓は赤い唇を曲げてあははと笑った。
「本当は嫌いだけどね」
陽気な表情に反するその痛烈な言葉に夕ははたと目を見開いた。
「嫌い?」
「うん、嫌い。だって那智ったら私の大好きな人の事虐めたんだもの」
許せないわ、と楓はまるで他人事のように軽く笑う。
同じだ、と思った。つい身体が前のめりになる。
「分かります。許せないですよね」
「ねー! なあに、ユウも那智に恨みがあるの? 仲間ね」
ふふふと楓は笑う。しかし何だろう、この違和感は。
同じだと思いながら、決定的に違う何かを感じる。
何だ――横目で楓を見て、その違和感の正体に気づいた。
「楓さん、那智さんと二人でご飯食べてましたよね?」
「食べた食べた。何だかんだ趣味が合うからたまに遊んだりするわ」
ビリヤードとかね、と言って楓はにこりと笑う。夕はやっぱりと心の中で呟いた。
楓の言葉からはその内容程の怒りや嫌悪を感じない。嫌いなら顔も合わせたくないのが普通だろう。
きっと楓とは『嫌い』の意味合いが違う。少しがっかりした。夕の心中を察したのか楓は水で喉を潤すと目を細めて微笑む。
「那智もあたしの事気に入らないって思ってるわ。だからこれは嫌がらせ」
ふふ、と楓は無邪気に唇を曲げた。
楓は明るく人当たりも良い為周囲の人間から好かれやすい。コマーシャルやテレビ番組に出るようになり人気が更に上がっているのはそうした人柄もあっての事なのだろう。けれど案外いい性格をしているのかもしれない。
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