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49 嘘つき〈3〉
「駅まで送ります」
言葉を失い呆ける利人の手を引き夕はずんずんと歩き出す。利人はついていくので精一杯だった。
繋がれた掌が熱い。
人気が少なく閑散とした朝の街をお互い口を開く事もなく手を繋いで歩く。けれどそれはきっと手を離すタイミングを失っただけだ。誰かとすれ違っていたらきっとこの手は離されていただろう。
だから今だけ、ほんの少しの贅沢だ。
(ごめん)
記憶に残る美しい彼女に向けて懺悔する。
元々付き合っていたのか、あの時の言葉が夕の告白だったのかは分からないけれど、今の二人の関係は聞くまでもないだろう。
(今はまだ夕の口からそれを聞いて動揺しない自信もないし)
夕を独り占めして、ごめんなさい。
幸せ者だと思う。夕が看病してくれて、醜態にも呆れず手伝ってくれて、今ではこうして手を繋いで歩いている。
自惚れかもしれないけれど、結構好かれていると思っても良いのだろうか。夕は友人とは距離が近い人なのかもしれない。さっきのキスだってきっと怪しむような深い意味はない。夕にとってはブレスレットへのキスも夜中のあのキスさえ恋や愛を語ったものではないだろう。
だって夕には本命がいる。
(だから勘違いは起こすな)
夕がどんなつもりなのかは知らない。ただの冗談で、気紛れだったのかもしれない。
(いや、待てよ。俺、もしかしたらとんでもない事を)
自分が異常な程飢えて夕の指先ひとつにも敏感に反応していた事は痛い程よく覚えている。
もしかして自分は、余程物欲しそうな顔をしていたのではないか。だから夕は良心からそれに応えてくれただけなのではないか。
(消えたい)
そう考えると辻褄が合う。これ以上にぴたりと嵌まるピースなんて考えられない。
いくら深いキスを交わしたってそれが愛されている理由にはならない。――本当に、その通りだ。
ああ、何て最悪なのだろう。
自分が恥ずかしい。ここまでどうしようもない人間だとは思いたくなかった。
「夕」
丁度駅が近づき人気が増え始めていた。利人は夕の手をそっと離しつくり笑いを浮かべる。
「ここで良いよ。服は後で洗って返すから。じゃあ……あ、」
夕に手を振り駅へ向かおうとした足を止める。振り返ると夕と目が合った。ちらりと横目で近くに人がいない事を確認すると、きゅっと拳を握り締め口を開く。
「夜の事、忘れるからお前も忘れろ。お互いその方が良いだろ? ……悪かったな」
恋人がいるなら、その相手を大事にすべきだ。
夜の事は夕が気にする事ではないし、彼女が知ってしまったらきっと不愉快だろう。
(だからなかった事にしてしまうのが一番良い)
今までした夕とのキスの中で一番気持ち良かった。一番興奮した。そして今となっては一番――苦しい。
声を潜めて言い切ると、利人は「それじゃ」とさっと踵を返す。
「俺はそうとは思わない」
背中に投げつけられるその声にびくりと肩を震わせた。
「けど利人さんは、忘れたい程嫌だったんですね」
ぎり、と胸が締めつけられる。違うと反射的に言い掛けて口を噤んだ。
(嫌な訳ない。忘れられない。この事実も気持ちも俺だけはきっとずっと覚えてる)
夕が忘れてしまっても。
「普通そうだろ」
好きだよ。
この言葉を告げる事は一生ないだろう。
『普通』じゃないから、代わりに『友人』として微笑みを贈る。
これからもこの関係でいられるように。
「そっか。そうですよね。ごめんなさい」
「いや、お前は悪くないから気にするな。俺の方こそごめんな。……じゃあ」
けろりと微笑む夕に今度こそ本当のさよならだと言わんばかりに笑って手を振る。
またな、とは、言えなかった。
「嘘つき」
消えていった利人の残像を見つめたまま夕はぽつりと零す。
小さなその言葉は利人の耳には届かない。
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