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51 連休直前の教室〈2〉

 驚いて思わず歩くのを止めると、藍は「いいから歩け」とばかりに背中を押す。そうして前を向いたまま小さな口を開いた。 「残念だが利人さんにとってお前はキープなんだ」 「は?」  思い切り顔を顰めると藍は不憫そうに夕の顔を見上げる。 「利人さんとの関係は良好。キスだってしてる。けど最後までは踏み込ませない。それってキープされてるって事じゃねえの?」 「馬鹿を言うな。利人さんはそういう事をする人じゃない」 「出た、思い込み。白岡がそう思いたいだけだろ? 利人さんにだってお前には言えない好きな人がいるのかもしれないよ?」  藍の鋭い指摘に夕は苦虫を噛み潰したような顔をした。藍は時々鋭い事を言うしオブラートに包む事もしないからこういうのは酷く突き刺さる。  けれど率直だからこそ、信用も出来る。 「分かってるよ。それ位、分かってんだよ」  まだあの人が好きだから心を明け渡してくれないんじゃないか、なんて。  真実味がありすぎて泣けてくる。 「いっそキープにだって喜んでなるさ」  利人はきっと嫌がるだろう。自分を慰める為に他人を利用する事を厭うだろう。  けれど、利人のぽっかりと空いた心をこの身体で埋められるのなら喜んでその役を務めよう。誰かに奪われる位ならその方がずっとましだ。利人の傍で、利人を抱いて、愛を囁く事が許されるのなら本望だ。  利人の身体に少しずつ己を馴染ませ染め上げていく。自分なしではいられない身体にして最後には心も丸ごと自分のものにする。  それは何て甘美なのだろう。 (けど、それは、駄目だ)  もしかしたら、『だから』避けられたのかもしれない。  あの人は真面目だから。  その時スマートフォンが振動しメールの受信を知らせた。画面を見ると楓からのものだと知る。 『旅行の日取りが決まったよ』  どうやら彼女はまだ諦めていないらしい。 「連休は利人さんに会うのか? 帰ってくるんだろ?」 「いや、その話は聞いてない。バイトしてるから帰らないかもな」 「ふうん」  あの日から数日が経ったが、メールや電話はしていないし向こうからの連絡もない。身体はもう良いのだろうかと心配でメールを送ろうかとスマートフォンを構えもしたけれど、別れ際の利人の様子が妙に引っ掛かって指先が止まるのだ。  利人が帰省してくるとしても、この時期で何の連絡もないという事は少なくとも自分に会うつもりはないのだろう。 (所詮その程度……なんて、考えるのは求め過ぎか)   これが普通だ。友人だって一々報告するとは限らないし帰省した時にしか会えない他の友人もいるだろう。そういえば彼はシスコンだ。家族との時間もきっと大切にする。  だからそんなに気にする事ではない。そう、頭では理解しているのだけれど。  不安、焦燥。それらが混ざり合ってじりじりと身を焦がしていく。静かに、少しずつ導火線は短くなっていく。  卑屈な心と苛立ちを混ぜながら、黒く大きな塊へと近づいていく。    ***  家に帰ると母が電話の前で困ったように溜息を吐いていた。 「何かあったんですか?」 「あら、夕さん。おかえりなさい。それが小林さんが腰を痛めてしまったんですって。彼女には来月の連休の展示会や講演会で手伝っていただく予定だったのよ。大事を取って暫く休んでいただく事にしたのだけれど、代わりの方が中々見つからなくって」  母はそう言って困り顔で微笑むとぱらぱらと住所録を開く。夕は母の隣に立つと目を細め薄い唇を開いた。 「俺で力になれるようでしたらお手伝いしますよ」 「夕さんが? ……そうですね、貴方は目が良いし力仕事も多いから来てくれると助かります。けれど塾で忙しいのでしょう?」 「連休中ずっとではないですし、塾が終わった後でも良ければ問題ありません」  母はまあと口元に手を当て、手帳を開き頷くと「ではお願いします」と上品に指先を重ね頭を下げた。夕もまた「こちらこそ」と恭しく頭を下げる。  これでクラスメイトに話した通り正真正銘連休中の自分の時間はかなりなくなる事になった。 (丁度良い)  穏やかに育んでいた恋に走る亀裂。近づく事を妨げる壁に焦りが生まれる。 (暫く頭を冷やそう)  今、利人に会ったら何もなかったかのように『友人』の顔をされるだろう。果たしてそんな利人を見て自分を抑えられるのか。  利人を甘く誘い惑わす事は、もしかしたら出来るのだろう。以前の自分ならきっとそうしていた。  けど利人はそれを求めていない。醜い塊を爆発させ、その愚かな衝動の為に過ちを繰り返す訳にはいかないのだ。  利人を苦しめる存在には、もうなりたくない。

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