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52 連休直前の居酒屋〈1〉
「雀谷、お前いい加減にしろ」
「周藤先生……本当に、申し訳ありません」
研究室の中、鬼のような形相を浮かべる周藤の目の前で利人は土下座をしていた。
「周藤先生。資料整理終わりました」
「ありがとう、賀茂居さん。そこに置いといて」
研究室に入ってきた賀茂居リカは頷いてテーブルの上に資料の束を積み上げた。ちらりと利人に向けた視線は冷ややかだ。
「ごめん、賀茂居さん」
「謝る位なら最初からきちんとやって」
利人が申し訳なさそうにリカへ頭を下げると、彼女は厳しい言葉と共に研究室を去って行った。
周藤の口からは重く長い溜息。
「雀谷」
「は、はい」
膝を折り利人に視線を近づけた周藤はくしゃくしゃと利人の頭を掻き乱す。
「今夜飲みに行くぞ」
「へ?」
「異論は認めん」
有無を言わさぬその言葉に「はい」と答える以外の選択肢はなかった。
***
利人が倒れた後寮へ帰ってからまた熱がぶり返すも、しっかり休んだ甲斐あって長く引き摺っていた風邪は週明けには完治した。
これで元気一杯いつも通りのキャンパスライフを送れるぞ――と思いきや、それは最低最悪の絶不調ライフの始まりだった。
授業に身が入らずぼうっとする。絶対に忘れるなよと言われていた研究道具を忘れる。周藤の補佐としてプロジェクターを操作しなければならないのに関係のない資料を映す。その上壊す。整理を頼まれた資料の山を倒して滅茶苦茶にする。
これまで授業は真面目に受けてきたし多少失敗する事はあっても大きな問題に発展する事はなく、ひとつひとつの事に責任を持って取り組んできたつもりだった。
周藤も利人のそうした姿勢はよく理解しているから最初は注意するだけで許してきたが、四日もこうしたミスが続けば流石の周藤も呆れるどころの話ではない。
「一体どうしたんだ? 折角院目指す事に決めたってのに全然身が入ってねえじゃねえか」
「うっ、本当に沢山ご迷惑をお掛けしてしまい申し訳ありません」
居酒屋の一角、半個室のテーブルの上には唐揚げや刺身、枝豆にだし巻き卵といったいかにもなメニューが並んでいる。周藤と向かい合った利人はビールの注がれたグラスを脇に置いたまましおしおと頭を下げた。そして早々に空になった周藤のグラスにビールを注ぐ。
「自分が不甲斐ないです」
ひたすら青ざめ身を縮ませるばかりの利人に周藤はやれやれと溜息を吐いた。
「最近ずっと暗い顔してるから心配なんだよ。何か悩んでるなら吐いちまえ」
「すみません、周藤先生に余計な気苦労を掛けさせてしまって。明日からは、しっかりしますので」
「もうゴールデンウィークだけどな」
周藤に合わせる顔がなくてひたすら謝り倒す。もう、本当に消えてしまいたい。
いいから飲めと言われ頭低くビールをちびりちびりと飲む。男なら一気に行けと凄まれると強制されるままグラスを大きく傾けた。アルコールが喉を焼いて熱くなる。
するとその時、廊下を通る人影が立ち止まり聞き覚えのある声を上げた。
「あれ、リイに周藤先生? 奇遇ですね」
そこに現れたのは沙桃と樹だった。どうやら二人も飲みに来たらしい。
「丁度良いとこに来たなお前ら! どうせ二人だけだろ? こっち入れ」
「えー……叔父さんと酒ぇ?」
あからさまに嫌そうに眉を顰める樹に周藤は「お前なあ」と呆れ果てる。
「いいからこいつの口割らすの手伝えよ。謝るばっかで何があったのか全く話そうとしねえ」
「よく分からないけど何だか楽しそうですね。お邪魔させてもらおうよ、いっくん」
ね、と肩を叩く沙桃に樹は眉を顰めたまま「しょうがねえな」と周藤の隣に座った。
「お、お疲れ様です。樹さん。沙桃も」
「ん。で、これはどういう状況なんだ?」
テーブルに肘を突きどんと構える樹に利人は苦笑いを浮かべた。事の次第を聞いた樹と沙桃は「ははあ」と互いに顔を合わせる。
「つまりこいつを潰せば良いんだな?」
「潰しちゃ駄目だよいっくん」
過激なんだから、と言いながらも沙桃は利人の空いたグラスにとぽとぽとビールを注ぐ。言葉こそ優しいが行動は全く優しくない。
「全員酒あるな? じゃ、改めて乾杯」
にやりと口角を吊り上げグラスを持ち上げる周藤に倣って皆グラスを掲げる。かちん、かちんとグラスのぶつかる音が軽やかに響き、利人は強くもないビールにまた口をつける。得意じゃないので、とはとても言えない空気だった。
身体がカッカと熱くなってふわふわ心地良い。お通しの和え物を口に含むとくふっと笑みが零れた。
「これ美味しいですねえ、ふふ」
「そういえばこいつ酒弱かったな。岳嗣さん知ってただろ」
「まあでも前よか慣れたんじゃないか? 多少は」
「リイ、次何飲む?」
「ジュース……グレープフルーツが良いなあ」
「オッケー! あ、すみません! ソルティドッグください。あと麒麟山おちょこ三つ、この焼き鳥セットも」
周藤の無言の視線が沙桃へと注がれ、沙桃の隣ではジュースが酒になった事に気づいていない利人が頬を赤く染めながら呑気にお通しを完食している。当の沙桃はにこにことメニュー表を眺めていた。
「何この子怖い」
「俺モモは怒らせると一番怖いって思ってる」
樹の言葉に周藤は「そうか」とだけ返した。
殆ど空きっ腹で小さなグラス一杯と半分ビールを飲んだ利人は十分にアルコールが回り良い気分になっていた。
対する他三人は酒に強く、ビールを少し飲んだ程度では顔の色すら変わらない。利人が圧倒的不利な状況だ。
「周藤先生は恋人いないんですか?」
「俺? そうだなあ。夜の相手は困ってないけど」
「わあ、意味深だなあ」
からからと沙桃が笑いおちょこを傾ける。
「格好良いからモテるんでしょうね」と言う利人に周藤は「まあな」とにやりと返した。樹は面白くなさそうな顔をしている。
暗くじめっとした空気は一転明るく賑やかになった。主に率先して会話を盛り上げている沙桃の成果である。
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