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53 連休直前の居酒屋〈2〉

 利人も徐々に元気を取り戻し和気藹々と酒の席を楽しんでいた。  まんまと飲まされたお蔭で身体は揺れるしたまに呂律も回らなくなる。しかし会話が出来る程度には落ち着いている分沙桃の酒の勧め方はベストだった。 「そういえばリイ、風邪はもう治ったの? 前会った時咳してたよね」 「んー? カゼ? あーそれはもうすっかり……」  沙桃の問い掛けに応える利人の声が少し小さくなる。その僅かな変化を沙桃は見逃さなかった。樹、周藤と目配せをすると、周藤が記憶に引っ掛かったように顎に触る。 「雀谷、お前先週店で倒れたって話したよな」 「えっ、そうなの?」  周藤の言葉に沙桃がすぐに反応する。食い気味の沙桃に利人は仰け反りながら「あ、ああ」とたどたどしく返事をした。 『オータム』へコーヒーを飲みに行った周藤が畑山から聞いていたのだ。だからミスをした時「まだ調子が悪いのか」と訊かれたが利人はそれに否と答えただけだった。実際風邪は完治している。 「夕が来てたらしいな。しっかしあいつは本当にお前の事好きだよな、誰も眼中にないっていうか」  それは周藤がさりげなく仕掛けた罠だった。けれど酔っている今、その言葉を冷静に受け止められない利人は過剰に反応してしまう。 「な、何言ってるんですか。はは……そんな風に見えますか? ふ、どこが? あいつは……夕は、人に優しいだけですよ。彼女だって、いるし」  声を震わせ誰の目にも明らかに狼狽える。樹が小さな声で「ビンゴ」と呟いた。  きっと普段なら平静を装って感情を押し殺す事が出来ただろう。  けれど今はまるですべての螺子が緩んでいるかのように自分を制御する事が出来ない。核心に触れられ心の中に閉じ込めていた苦しみが溢れ出る。 「リイ、夕君の事好きなんだね」  今にも泣きそうな顔をしている事に利人は気づかない。  ただ沙桃の翡翠の瞳と声があんまり柔らかいものだから、まるで自分が幼子になって優しく包まれたような心地だった。  すべて酒のせいだ。  泣きたいのも、甘えたいのも、すべて吐き出してしまいたいのも。 「うん」  両手で顔を覆い、絞り出すように声を吐き出してゆっくり頷いた。目頭が熱くて、少しだけ涙が滲む。 「俺、諦めるつもりだったんだけど。諦められると思ってたんだけど、……っずっと、夕とその相手の事頭から離れなくて。っう、祝福したいのに、全然、出来な……ッ。どんどん自分が嫌な人間になって。俺……っ、も、最低だ」  涙腺が壊れてしまったのかもしれない。ひとつ話し出すとぽろぽろと涙が溢れて止まらない。沙桃によしよしと背中を撫でられ渡されたハンカチで真っ赤な目を拭った。  あの日から記憶の中の夕が頭から離れない。  好きな人が、恋人がいた事のショックは自分が思っていた以上に大きなものだったのだと思い知らされた。  そうして知る。自分の中にある汚くて歪んだ感情。  醜い嫉妬。 「何で諦めなきゃいけない訳? そんなにあいつが欲しいなら奪えば良いだろ?」  どうして悩んでいるのか分からない、とでも言いたげに首を傾げる樹に利人はずっと鼻水を啜って濡れた瞳を瞬きする。 「それは駄目です。俺、見たんですよ。夕が彼女さんと楽しそうに話してるところ……あそこに俺の入る隙なんてなかった。夕が笑ってるんだから、それを壊すなんてしちゃいけないんです」 「リイらしいね」  眉をきつく寄せて真剣な顔をする利人に沙桃は困ったように目を細めた。 「はあ、くそ真面目。お前あれだな、発散の仕方知らないんだろ。そういう時はバーにでも行って男引っ掛けて一発ヤればいくらかすっきりするぞ。案外イイ男が見つかるかもしれないし」 「ちょっといっくん!」  投げやりとも言える樹の発言をすぐに理解出来ずにいた利人だが、ぼんやりとした瞳は次第に色を深くし顔が硬直する。 「む、無理。俺そういうの無理です。知らない人と会っていきなりとか、いやそうでなくても好きでもない人となんて……」  両手を前へ突き出しぶんぶんと首を横に振る。ほら、と沙桃が樹をたしなめ樹は不服そうに顔を顰める。  驚いた。急に何を言い出すのかと思った。  樹の過激な発言に内心どきどきするも、樹と初めて出会った日の夜に偶然居合わせたのもバーだった事を思い出す。男とぴったり身体を寄せて入ってきたものだから、流石の利人もその怪しい雰囲気に驚いたのを覚えている。 (あれは沙桃と付き合う前だったのかな) 『大人』だ、と思う。  樹は利人や沙桃より二歳年上だ。けれど年齢以上に樹が『大人』に見える。  バーの薄暗く妖艶な雰囲気に樹は一切浮く事なく溶け込んでいた。いっそそれらは樹を引き立てる飾りでしかないとさえ思えた。  バーで知らない男と出会い酒を愉しみ夜を共にする――それは利人にとって『大人』の世界だ。決してそういう付き合いを否定しているのではない。それに口では無理だと言ったけれど、そうした世界への好奇心はないと言ったら嘘になる。  すっきりすると言っていた。良い相手が見つかるかもしれないとも。この苦しみから解放されるならそれもありなんじゃないかと思ってしまうのだ。  夕の低めの体温だとか、触れられる大きな手とか、記憶に焼きついた感覚が忘れられない。けれどそうして引きずる位なら、いっそ誰かの熱で上書きした方が良いんじゃないか。  でも。 「面倒臭ぇなあ」  椅子に凭れ掛かりビールをぐびぐびと煽る樹に利人は苦笑いを浮かべる。 「すみません。でも俺、例え夕が独りだったとしても夕とどうにかなるなんて思ってません。夢のまた夢でしょ。俺は夕の友人でいられればそれで良い」  きっと、夕以外の男に抱かれてしまったらもう夕には会えない。  やましい気持ちを抱いたまま友人面するのもどうかと思うが、好きでもない男と寝た身体で夕に会いに行ける自信がない。  怖い。嫌われるのが怖い。軽蔑されるのが怖い。――なんて、ただ夕がくれた感触を忘れたくないだけなのかもしれないけれど。 「俺、こんなに自分が欲深いなんて知りませんでした。彼女と別れたらいいのにとか、振られてしまえとか思っちゃって。そんな事思いたくないのに。欲深い上に嫉妬深いなんて心が狭いにも程がある」  まさか夕の不幸を願う事になるなんて思ってもみなかった。  ただひたすら、夕の幸せのみを願っていた筈だったのに。

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