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54 連休直前の居酒屋〈3〉

「すみません、そこのティッシュ……」  ずっ、と鼻を啜りながら顔を上げると、壁際に置かれたティッシュ箱の隣で周藤が怪訝そうな顔をしているのが見えた。  見れば、樹も沙桃も何か物言いたげな顔で利人を見ている。いや、これは呆れている顔だ。 「ひ、引きましたよね。ごめんなさ……」 「いやそれ普通だろ」 「はい?」  ほらよ、とティッシュを箱ごと周藤にを渡されながら投げつけられた言葉にきょとんと目を見張らせる。戸惑いながら隣の樹へと視線をスライドさせると樹は呆れ返って溜息を吐いていた。 「あんたの『欲深い』も『嫉妬深い』も大した事ねえ。人間ひとり監禁する位の事してから言え。俺に失礼だろ。俺に謝れ」 「えっ監禁? えっ、ごめんなさい……?」  樹の気迫に怯え戸惑いの矛先を沙桃へ向けると、沙桃はにこりと微笑んで「大丈夫」と利人の肩を叩いた。 「中には好きな相手に執着し過ぎて犯罪級の事をしでかす人もいるって事。いっくんは痛い目に遭ったからねえ。まあそれは極端な例だとして、リイは全然おかしくないよ。ただ恋愛してるだけ」  れんあい、と口の中で呟く。  それはじわりと喉を通り心臓へ落ちていく。  これが、恋をするという事なのか。 「雀谷見てるとこそばゆくなるなあ。俺にもこんな頃があったのかね」 「分かります。初々しいですよね。いやあリイがこれほど可愛いなんて知らなかったな」  くすくすと笑いながら酒を飲む周藤と沙桃に利人は元々赤い顔をますます赤らめて顔を皺くちゃに歪める。 「悪口だ」 「褒めてるよ?」  嘘だあ、と利人もまた梅酒のグラスを唇につけてちびちびと飲む。何だかやさぐれたい気分だ。 「けど雀谷さ、霞さんの時だって嫉妬位しただろ? 奥さんの椿ちゃんとかさ」  酔っているせいか、周藤の発言があまりにも自然だったせいか。さり気なく切り込んでくるその言葉に利人は構える事なくただぼんやりと首を横に傾げた。 「どうして俺が椿さんに嫉妬するんですか?」  素直な疑問だった。 「お前、霞さんの事好きだっただろ?」 「はあ……それがどう関係して、俺がしっ……」  そこまで言葉を紡いで、やっと自覚する。 「す、周藤先生。どうしてそれ知っ、うわ、わ!」  がたん、と梅酒のグラスを倒し酒が流れる。テーブルと自分の足を濡らす程度に留めただけましだっただろう。沙桃も手伝いながら慌てて片付け、アルコールが強く鼻先を掠める中居心地悪そうに周藤の顔を見上げる。 「いつだかお前、霞さんからの手紙を読んで泣いただろ。『そう』なんだろうなって、何となく分かった」 「そ、そうでしたか」  恥ずかしい。心配されているとは思っていたが、白岡への想いを見透かしてのそれだとは知らなかった。  で、どうなのと話を戻され利人はきゅっと唇を引き結ぶ。樹や沙桃がいる前で話す事に抵抗はない。多少の気恥ずかしさはあるけれど。  もうそれは過去の話だ。 「嫉妬なんてしないです。椿さんは本当に格好良くて素敵な女性で、俺は大好きなんです。お二人が仲睦まじく話されている姿を思い出すとこの辺が温かくなるんですよ」  胸に手を当て唇を緩める。  自分の気持ちに気づくのが遅かったというのもある。けれどそれでも、白岡に関わる誰かに嫉妬なんてした事はない。 「お前の霞さんへの気持ちは未熟な恋って感じがするな。憧れや親愛に近いというか。けどその事があったからこそ今のお前があるのかもしれないな」  ずしんと周藤の言葉が重く鋭く脳を揺さぶる。  一昨年の夏、夕に告白されても恋愛に距離を置いていた自分は『好き』がどういう事なのかさえ分かっていなかった。  けれど今なら分かる気がする。  会いたくて、触りたくて、自分だけを見てほしくて焦れるこの気持ちは友人や家族への『好き』とは全く違う。果たしてこんなに激しく熱い想いを自分は知っていただろうか。  行きずりの男との行為を無理だと言ったのも我儘な恋を知ったからだ。よくよく考えてみれば白岡との付き合いも似たようなものだったじゃないか。けれどもうあんな馬鹿な行為はしない。否、出来ない。  白岡に植え付けられた恋の欠片はいつの間にか夕の手によって育てられこんなにも大きく身勝手に成長した。  けれどそれは決して悪い事ではないのだ。かつての自分も今の自分も丸ごと許されたような、そんな心地がして胸の辺りがすっと軽くなるのを感じた。 「リイは無欲なんだか強欲なんだか。好きって言ってしまえば良いのに」 「それは……出来ないよ」  そっかあ、と沙桃は困ったように眉根を下げて「苦しいね」と言った。 (苦しい?)  確かに今は辛いけれど、気持ちを伝えられなくて苦しい訳ではない。伝えたいのを堪えてはいないのだ。  白岡の時もそうだった。想いを伝えられなかった事を悔いた事はない。  それともいつか伝えたくなるのだろうか。  この関係が壊れてしまうかもしれないのに? 「ねえ、リイ。今度どこか遊びに行こっか」 「――え?」  急な沙桃の提案に利人ははっと目を丸くする。沙桃はにっこりと笑うと「そう、遊び」と頷く。 「僕といっくんとリイ、それに夕君も誘って四人でさ。ぱーっと遊びに行こう」 「夕に彼女、ねえ」  テーブルに頭を突っ伏し眠る利人の前で周藤は煙草の煙を吐き出しぽつりと呟く。 「周藤先生は夕君の事、よく知ってるんですよね。僕は少し聞いた位なんですけど、もしかして夕君はリイに気があるんじゃないですか? あるいはあった、とか」  ゆらりと光る翡翠の瞳に周藤はほうと僅かに目を見張らせる。 「篠原、鋭いね」  にやりと口角を釣り上げる周藤に沙桃もまたふふと微笑みを浮かべた。 「いくら冗談だとしても気のない相手にキスはしないでしょ。リイは全然気づいてませんでしたけど」  更け込む夜空の下、何も知らない利人はひとり深い深い眠りへと落ちる。夢さえ見ない、深い眠りへ。  二日酔いにうなされるまでの束の間の休息だった。

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