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56 ひかり
将来について悩む利人の声を聞いて、その内容に「ああこの人らしいな」なんて思った。
話しているうちに結論を出してしまうその潔さに素直にすごいと思ったのだ。そして同時にいつまでも中途半端な自分が情けなくなる。
利人の言葉のひとつひとつが頭の中に響いて木霊する。元気を、勇気をくれる。
そうして出したひとつの答えは、自分にとってはとても大きい選択で。
それはすっと胸のつかえが取れたような、ほっとしたような、そんな心地だった。
***
重い段ボール箱を車から荷台に下ろしていく。力仕事が回ってくる事の多い夕は段ボール箱を三箱荷台に乗せるとふうと腰を擦った。
そうして何気なく流した視線の先、道路に止まっている水色の車の中に利人の姿を見た気がして思わず視線を戻す。しかし車はすぐに行ってしまってその姿を確認する事は出来なかった。
(まさかな)
そんな偶然、ありはしないだろう。もう見えもしない車の行く先を見つめたまま夕はひとり自嘲する。
「夕! 何やってんの。ぼーっとして」
展示会場の裏口から駆け寄って来た女に叱られ夕は「すみません」と慌てて最後の段ボール箱を荷台に積み上げた。
栗色の長い髪の毛を高い位置でひとつに結わえた彼女は蓮田 茉奈 と言う。母の弟子で彼女も母の補佐に来ていた。
茉奈は大きな鞄を軽々と持ち上げるときびきびと歩き夕も荷台を押して彼女の後をついて行く。
「さっきまで塾だったんでしょ? 疲れてる?」
「全然平気ですよ。大事な花器を落としたりしませんからご心配なく」
「なら良いけど。いや私はこれでも夕の身体も気遣ってるんだからね? 忙しそうじゃん」
「まあ、でも大した事ないですよ。茉奈さんこそ実家の花屋の配達の後なんでしょ? よく体力持ちますね」
体力だけは自信あるからね、と言って茉奈はくすくすと肩を揺らす。
茉奈は母の親友の娘であり、彼女が母に弟子入りする以前から親交があった。幼馴染、と言えるのかもしれない。母は茉奈をとても可愛がっていたし、茉奈もまた母によく懐いていた。
そんな茉奈は今二十二歳。幼馴染とはいっても夕とは六つも年が離れている分遊んだ事は殆どなく、顔を合わせた時に少し言葉を交わす程度だ。同性であったならまた違ったのかもしれないが。
「私は身体動かしてる方が楽だわ。勉強嫌いだったし。大学に行っとくのは良い事だとは思うけど、そんなに頑張らなくても良くない? 他所に就職する訳じゃないんでしょ?」
控室に着くと荷物を置いて段ボール箱を開けていく。箱の中にごそごそと手を入れながら当たり前のようにそう口にする茉奈に夕は「まあそう思うよな」と胸の内で呟いた。そうするのが至極当然の流れだからだ。
けれど夕はその流れに身を任せる事をすでに止めている。
「良い就職先があればそちらに入りますよ」
ビッ、とガムテープを剥がしながら何でもない事のようにそう答えると、茉奈はぴたりと手を止めて「嘘」と呟く。
「華道家にならないつもり? 先生がいるのに?」
茉奈は母を先生と呼ぶ。驚きと戸惑いの滲んだその声は無意識に夕を責めた。
先生がいるのに――それは白岡家が代々白岡流を守ってきた重い歴史のある家柄であり、夕が現家元の息子、跡取りである事を言外に含んでいる事は容易に察して取れた。
夕は顔を上げると茉奈の強い眼差しを受け止める。堀が深く目鼻立ちがしっかりしたその顔立ちは彼女の母方の血を強く感じる。彼女は母親にそっくりで、その母の弟である周藤にもまた似ていた。
「ならないとは言ってません。師範の免許は取るつもりですし。ただ今後どうするかは大学に通いながらきちんと考えます。華道よりも自分に合った道があるかもしれないでしょう?」
これが夕なりに出した今の答え。自分の未来を広げる一歩だ。
今までは華道以外の道を考える事さえ悪い事のように思っていた。けれど利人の話を聞いているうちにもっと自由に考えていいのではないかと思えたのだ。それにきっと、自分はずっとそれを求めていた。
茉奈は母が夕に家元の座を押しつけるつもりのない事を知っている。母の弟子や関係の深い人間には既に伝えてある事だった。
それでも、きっと夕が継ぐのだろうと茉奈でなくとも皆思っている。その空気を夕もまた理解していた。だからずっとそれに縛られてきた。
「先生はきっと、心の底では夕に継いでほしいって思ってるよ」
「そうかもしれませんね」
夕が期待されるのは幼い頃からずっと華道に触れ真面目で優秀で家元を継ぐのに何の遜色もない人間だったから。――そう、自分を仕立て上げてきたからだ。
けれど、本当の自分というのは皆が思う程出来た人間なんかじゃない。
夕は思う。義理と義務だけで跡を継ぐ位なら母のように花を愛しその仕事を天職だと思っているような人間が継ぐべきだと。例えば、そう――茉奈のような。
茉奈はまだ一人前ですらないけれど、コンクールに入賞した経験のある彼女はセンスが良く努力家で熱意のある人だ。自分の娘のように可愛がっている母はきっと彼女に期待しているだろうし、彼女もそれに応えるだろう。
夕が一歩外へ踏み出す勇気をくれたのは他ならない利人だ。
利人がいたから今の自分がある。利人がいたから自分を好きになれる。
それは失えない、ひかりだ。
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