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58 陽葵と伊里乃
「あれ、先輩と一緒じゃないの?」
近くの柱にリードを繋ぎ防波堤に腰掛けた伊里乃の背後に陽葵が立つ。伊里乃は仰け反るようにして頭を上げ陽葵の顔を見るとひとつ溜息を吐いて目を閉じた。
「知らない。さっきまでいたけど急に走ってどっか行った。ていうか何でいるの」
「コンビニついでに散歩、ってマジで? あのシスコンの先輩が伊里乃を置いて?」
陽葵は顎に手を添え、ははあ、とわざとらしく首を傾げて見せる。そうして眼鏡の縁を指で触ると「彼女でも出来たかな?」と冗談めかして言った。
「だと良いけど」
「おや、嫉妬しないの」
海を眺めながら素気ない返事をする伊里乃に陽葵は意外だとでも言いたげに目をぱちくりと瞬かせる。
「私ももう大人だし。もはやあの年で彼女いない方が心配になるでしょ」
まあね、と陽葵は深く頷く。陽葵は利人が中学の時彼女がいた事は知っているが、あれ以来浮いた話を全く聞いていない。羽月から聞くに結構いざこざしたらしいから、女に懲りてしまったのではと少し心配もしていたのだが。
「でもま、大丈夫だよ。先輩女に興味なさそうなとこあるけど、その内否が応でも好きな人位出来るでしょ。むしろ人が良いから向こうからめっちゃアピールされそうだし、ああでも気づかなそうだな……先輩めっちゃ鈍そう……」
利人に想いを寄せる想像上の相手を不憫に思いながら、まあその内彼女連れて来るんじゃないと陽葵は軽く言った。伊里乃はやや複雑そうな顔を見せるも「分かる」と小さく呟くのだった。
「いやー、今日女物の買い物誰と行ってるのかって先輩に聞かれたんだけどひやっとしたね」
「何でよ」
潮風に利人と同じ赤褐色の髪をなびかせながら伊里乃は眉を顰める。陽葵は苦笑いを浮かべながら伊里乃の隣に腰掛けた。
「いやだって、先輩だよ? 度々妹さんとデートしてますなんて言ったら泣かれるか殴られるかするでしょ」
一瞬の間。伊里乃は怪訝そうな顔を赤くしてますます表情を険しくした。
「は、何言ってんの? 女装男と服見てる事のどこがデートよ。女二人買い物してるのと同じでしょ」
「あ、何気に俺の女子力褒められてる?」
「うぜえ」
「伊里ちゃん~そんな言葉使っちゃ駄目でしょ~」
くね、と女声で腰を曲げる陽葵に伊里乃は侮蔑の眼差しを向ける。しかしそれもいつもの事なので陽葵は全く動じない。
「あんたは別にいい」
「特別って事だ」
「違うし……」
にっこりと笑って伊里乃の暴言を物ともしない陽葵に伊里乃は呆れ果てる。髪を掻き上げ耳に掛けると、自分を見つめる陽葵と目が合った。
「あまり油断しないでね」
陽葵はいつものように微笑んでいるだけなのに、その声がいつもより少し低く、真剣な響きを持っている事に意識を取られる。
「俺、女の子になりきるのは好きだけど女になりたい訳じゃないから」
陽葵の瞳の色が深くなる。急に見せられた陽葵の男の顔に、伊里乃は身体が動けなくなったかのように硬直させた。
「俺が男って事、忘れないでね」
ぽん、と頭を撫でられて。
「陽葵の癖に……」
俯きながら険しく顔を顰める伊里乃の頬は赤く染まっている。
後にこの二人は何年も掛けて付き合い何年も掛けて結婚する事になるのだが、利人は笑って二人を祝福し陰でこっそり泣く事となるのだった。
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