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59 白岡家へ

 結局夕と連絡がつかないまま約一年振りとなる白岡家に辿り着くと、日は傾き辺りは暗くなりつつあった。久し振りに見る立派な瓦屋根の門に懐かしさを覚えると共に、ずきりずきりと痛みにも似た緊張が走る。  利人は目を閉じてひとつ深呼吸をすると、意を決したようにゆっくりとその敷地に足を踏み入れた。 「まあ、まあ。雀谷さん?」  玄関の戸から現れた椿は大きな瞳を見開かせふっくらと花が綻ぶように頬を緩ませる。変わらない椿の姿に利人もまたほっと表情を和らげた。  けれど結局夕はいなかった。椿の仕事の手伝いで出払っているらしく、椿自身も帰ってきたばかりなのだと言う。  もうじき帰ってくるだろうからと客間に通された利人は座布団の上にちょこんと座り目の前に出される湯呑みやお茶菓子を見つめた。 「すみません、こんな時間に急に押し掛けてしまって。用が終わったらすぐ帰りますので」  顰蹙する利人に椿はとんでもないと顔を綻ばせ、小さな唇の前で掌を合わせる。年齢を感じさせない白くて華奢な綺麗な手だ。 「お会い出来て嬉しいわ。私、雀谷さんとお話したかったの」  だから丁度良かったわ、と微笑む椿の発言に意表を突かれた利人はきょとんと目を見開かせ戸惑いの表情を浮かべる。  その様子がおかしかったのか、椿はふふと鈴が鳴るように小さく笑った。 「先月の中頃だったかしら。夕が突然改まって私に言ったんです。『華道家として生きない選択をしても許してくださいますか』と」  はっとした。先月の中頃――それは、丁度夕と進路の話をした頃だ。  夕もまた決心したのだろうか。家業を継がない選択をしたのだろうか。そしてそれは、受け入れられたのか。  膝の上で汗ばむ拳を握り締め、利人は恐る恐る唇を開いた。 「椿さんは、何と」  もしかしたら自分が自由にすれば良いと無責任な事を言ったから椿は怒っているのかもしれない。だから話したいだなんて言ったのではという不安が頭を過ぎった。  けれどそうではなかった。 「勿論、と答えたわ」  柔らかく告げられた椿の言葉に、利人は張り詰めた糸がふつりと切れたようにほっと胸を撫で下ろす。  椿が夕に家業を継がせる事を強いていない事は夕自身から聞いていたけれど、それでも夕の選んだ選択が認められるとは限らない。本来ならば衝突の起きやすい状況だろう。  だから夕の願いが届き、穏やかな親子関係が続いている事に安堵する。 「華道にも積極的に取り組みながら大学で他にやりたい事がないか探したいそうです。私、何だか感動してしまって」  だってねえ、と椿は庭先に目を向け陰る空を見つめる。利人も釣られるようにして視線の先を追った。影の落ちる庭に反して遠くの空は綺麗な朱が差していて、そこへ透き通った夕闇が迫っていく。 「夕に無理強いをさせているのではないかとずっと気になっていたんです。だから自分の将来の事を前向きに考えて、その上家業も大事にしてくれている事が私はとても嬉しいの。――雀谷さん、きっと貴方のお蔭だわ」  ありがとう、と言う椿に利人はえっと視線を椿へと戻し戸惑いながらぶんぶんと手と頭を横に振る。 「そんな、俺は何も」  いいえ、と椿はゆるゆると首を横に振る。  何か心境の変化でもあったのかと問う椿に夕は言った。 『大事にしたい人がいるんです。その人に、恥じない人間でありたい。誇れる自分になりたい』  貴女も知っている人ですと言われて、椿にはそれが誰か分かった気がした。  利人に会ったと話す夕、利人と電話をしている時の夕。垣間見えた彼の表情は滅多に見る事のない柔らかいものだったから。 「出来るだけ後悔のない選択をしたいと言っていました。貴方の受け売りだそうですね。二度、言われた事だと」  ――二度?  はた、と目を見開かせた利人はそれはいつの事だろうと頭を巡らせた。それは確かに先日夕に言った事だけれど、それより以前にも同じ事を口にしていただろうか。  新しい記憶にはない。なら、それは夕がまだ中学生の頃の話という事になる。 (そんな前の事を覚えてくれてた?)  きゅうと胸が締め付けられる。どくんどくんと心臓がうるさく鼓動する。  椿の思い違いかもしれない。礼を言われる程の事は本当にしていない。  それでも、少しでも夕の背中を押せたのだとしたら、夕にとって良い風になれたのだとしたら。 「夕、遅いわね。道路が混んでいるのかしら。雀谷さん、ごめんなさいね」 「いえ、あの……俺、帰ります」  夕に渡してくださいと紙袋ごと椿に預け、引き留めようとする椿に深く頭を下げて立ち上がる。  顔が熱い。ぼうっとする。  嬉しかった。  思い上がりかもしれないけれど、それでも夕の為になれる事が何より嬉しい。  もういい。例え次に会えるのが一週間先でも、ひと月先でも、いつ会えるか分からなくても。  帰ったら夕にメールをしよう。お礼と他愛もない話を。 (良かった)  夕を想う気持ちが救われたような、そんな心地だった。

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