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69 誘惑

「賀茂居さんが好きなのか?」 「……はあ?」  何言ってるの、と那智の口角が引き攣る。隣で後藤は僅かに目を見張らせていた。 「いや、違うならすまん。気にしないで」 「いやいや気にするっしょ。さっきの俺達見てたよな? どうしたらそんな風に思えるのか意味分かんないんだけど」  その声に苛立ちが含んでいる事に利人は気づかない。利人は目を閉じると、うーんと顎に手を添え頭を傾けた。  はっきりとした理由はない。ただ何となくそう感じたのだ。それは何故かと思考を手繰り寄せていると、パズルのピースがぱちりと合うようにああそうかと目を開く。 「那智の賀茂居さんへの態度って、男の子が好きな子を苛めるのに似てるんだ。好意を示すのが下手、っていうか」  加えて一瞬だけ見えた楓への視線。あれが嫉妬という名の敵意なのだとしたら、それにも納得がいく。  すると、ぱきんと音が弾けた。 「へえ、言うじゃん」  はっと唇を閉じ那智を見ると、彼はテーブルの上に身体を乗り出し狐のような妖しい瞳を揺らめかせていた。その手の下ではコーヒーに添えられていたクッキーが真っ二つに砕け落ち、細長い指に拾われるとひょいと口の中へ放り込まれる。 「利人君って恋愛上手なんだ」 「悪かったって。今のなし。それに俺の言葉なんて信用ならないだろ? 俺にそういう洞察力はないって証明されたばかりなんだし」 「そうだね。利人君って、本当に面白いよね」  くすくすと鈴を転がすような笑い声が那智の薄い唇から零れる。  からかわれているのが分かる。余計な事を言うんじゃなかった。 「それにさ、あんたってユウが好きなんじゃない?」  そうでしょ、と那智の唇が緩く曲げられ利人は言葉を失う。え、その、と挙動不審丸出しの利人に那智は腹を抱えてくつくつと笑った。 「分っかりやすいねえ! 本当可笑しい」 「ど、どうして」 「見てれば分かるよ。さっきすっげーほっとしてたでしょ。めぐちゃんもゲイなんだから気づいたんじゃない?」  那智に視線を向けられ後藤は「まあ」と頷いて肯定する。利人はショックで項垂れた。そんなに分かってしまうものなのか。  こんな事でいつまでも夕の傍になんていられるのだろうか。 「告白した?」 「してない。するつもりもないし」 「えー、何で。エッチしたくないの?」  驚いた顔を見せる那智に利人こそぎょっとした。どうしてそうなるのか、思わず頬が紅潮する。  そんな利人を見て肯定と捉えたのか、那智はにやにやと頬を緩めた。 「そうだよなあ、健全な成人男子だもんな。あっ、じゃあ今夜にでも言ってみれば? 成功したらそのままエッチコースじゃん」  指でピースをつくる那智に利人はぶんぶんと首を横に振る。話の流れがおかしい。これではセックスする為に告白するみたいだ。 確かに那智の言う通りそういう欲求はあるけれど、そうした欲求がある事は知られたくない。 「だから言わないって。そんな都合良く行く筈ないし。エッチしたいから告白するっておかしいだろ」 「何で?」  ぱっちりと大きく見開かれた那智の瞳にびくりと身体を強張らせた。急に時の流れが遅くなったように感じる。目が離せない。 「セックスってそんなに悪い事? 違うだろ? 俺はむしろあんたに寄せた方だよ。あんたはどうせ好きな相手とじゃなきゃシたくない口だろ? ユウとシたいんだろ? 何我慢してんの?」  くらりと眩暈がしそうだった。揺さぶられる。思考が掻き回される。誰かに似たような事を言われたような気がした。 後藤の痛いまでの視線を感じて、ぎゅうと拳を握り締める。  引っ張られる。那智の視線に、言葉に。  乱される。 「本当はユウに振り向いてほしいんだよね。自分だけを見てほしいんだよね。でも、嫌われるのが怖いんだ」  やめてほしい。  それ以上言わないでほしい。 「那智、俺の事はもう」 「めぐちゃん、利人君の写真撮りたいって言ってたよな。今それやろう」  利人の言葉を遮り被せられた那智の言葉に利人はえっと思わず声を上げる。 「待ってくれよ、そもそも俺それは嫌だって」 「利人君に足りないのは自信だ。あとそうだな、色気もない。そんなんじゃユウは落とせないよ」  突き刺すような鋭い那智の言葉にぐっと言葉を詰まらせる。  そんな事は分かっているのだ。自分に性的魅力なんて、自信なんてある訳ない。  恋人ではないにしても、夕のすぐ近くには美貌の女がいる。楓だけじゃない。魅力的な人間に囲まれている夕が自分だけを見てくれるなんて期待するだけ馬鹿みたいじゃないか。 (もう、前とは違う)  今がきっと『最高』で。  これ以上求めて失うのが怖い。 「まだ諦めるのは早いんじゃない。気持ちなんてアピール次第で簡単にひっくり返る。利人君にだってチャンスはまだあるんだ」  それでも那智の言葉に惹かれてしまう欲深さよ。  好かれたい。  愛されたいと、どんどん求める気持ちが膨らんでいく。 「手伝ってあげる。そういうの俺得意だよ。それに俺男は勘弁だけど、めぐちゃんならそっち方面の助言も出来るんじゃない?」 「僕で良いなら。撮らせてくれるんなら僕の経験談でも何でも話しちゃうよ」  後藤は声を弾ませ、ずずっと残りのコーヒーを口の中へ流し込む。  どく、どく、どく。  血が目まぐるしく身体の中を流れていく。回っていく。 「どうする? このまま何もせずユウが人のものになるのをただ指咥えて見て、本当にそれで良いの?」  どく。 「写真を撮ったら、何か変わるのか」  気をつけろと誰かが遠くで言っている。分かっている。また不愉快な思いをする事になるかもしれない。  那智も後藤も悪い人ではないのだろうけど、手放しに信頼出来る程の関係を築いている訳でもない。  それでも。 「それはあんた次第だ」  後藤の渋く低い声が耳の中で木霊する。  今の自分はぐちゃぐちゃで、中途半端で、みっともなくて。  そんな自分を変える切っ掛けが欲しかったのかもしれない。

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