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70 撮影開始

「うわ。何これ」  がたごとと揺れる車内。利人は思い切り顔を顰め咄嗟に口元を手で押さえた。もう片方の手には金色の包み紙が握られている。 「美味いでしょー、それはブランデーかな? 俺ここのボンボン大好き。もう一個食べる?」  利人はふるふると首を横に振り、美味いのになあと那智は次々に包み紙を解いてはチョコレートを口の中へ放り込んでいく。  移動中の車内で小腹が空いたらしい那智が鞄から取り出したのはやたらと高級そうなチョコレートの箱だった。ただのチョコレートかと思いきや中にはとろりとした洋酒が入っていてカッカと身体が熱くなる。  コンビニやスーパーに並んでいる洋酒漬けレーズンのチョコレート菓子は食べた事があるが、あれなんかよりずっとハードだ。那智は軽快にぱくぱくと食べているが、これはきっとそんな風に気安く食べるものではない。  それでも所詮お菓子、小さいチョコレートを一粒食べた位では流石の利人も酔っ払いはしない。しないけれど、不安定な車道でよく揺れるものだから車酔いも重なって少し頭がくらくらする。  後藤の車は山道を走りやがて小さなコテージの傍に停まった。周囲には同じ形の建物が点在しているが他に宿泊客はいるのかいないのか、人の気配はあまりない。  車を降り砂利を踏み締めるとそれまでとはまた違う冷たい山の空気を肺一杯に吸い込んだ。不快な酔いが少しずつすっきりと晴れていく。  濃い水の匂い。音。きっと川が近い。 「ここは?」 「僕の宿だよ。そもそも僕は那智や他の若い子らとは別でね、一人でゆっくり撮影したりのんびりしたりする為に来たのさ」 「めぐちゃんに旅行の話したら『僕も行こうかな』なんて言い出すからさ。お蔭で俺は運転手をゲット出来たんだけど」  後藤は車から荷物を下ろすと次々とコテージの中へ運んでいく。玄関に続く短い階段を上り床が高くつくられたコテージの中へ入るとまずダイニングキッチンが目に入った。室内は思ったより広く、奥にはテレビやソファが置かれている。梯子のような階段の先はきっと寝室になっているのだろう。 「さて。じゃあ早速その辺歩きながら軽く撮らせてもらおうかな」  後藤の言葉にどきりとする。ちらりと時間を確認すると夕達との待ち合わせ時間まで三十分を切っていた。ここまで来てしまったものの、きっと五分やそこらでは終わらないだろう。 「あの、後藤さん。どれ位時間掛かりますか? 友人と四時半に待ち合わせしているんですけど」 「そりゃあんたの都合に合わせるけど、それならすぐだな。どうせ夕飯までは時間空くんだろ? 自転車返したら宿まで送ってやるからもうちょっと付き合ってくれないかなあ。長居はさせないからさ」  な、と言われ利人はそれならと頷いた。夕飯はペンションで取る事になっているからそれまでに帰れば平気だろう。利人はスマートフォンを取り出すと少し躊躇った後沙桃に連絡をした。  コテージの裏手は木々が多いながらもなだらかで危なげなく歩く事が出来た。今朝の雨の名残か地面は湿っていて足の裏で砂利や雑草が擦れる感触が伝わる。  そうして歩いていると、くん、と腕を引かれ利人は一瞬体勢を崩した。 「――っと、」 「大丈夫?」  袖に木の枝が引っ掛かり絡まったのだ。それを振り解きながら平気ですと返し再び歩き出す。散策出来るように整備されている訳ではないから気を付けていないとこういう事になる。  利人は後藤と二人ぽつりぽつりと言葉を交わしながら穏やかな山の中を歩いていた。気にしなくていいからと言ってシャッターを次々に切っていく後藤に利人は初め馴染めずにいたが、後藤と話して緊張が解れてきたのかそれも次第に慣れていく。 「じゃあ今は恋人募集中なんですね」 「そー。僕いつも続かなくてさ。けどまあ僕の場合執着されるのも面倒だから、何だかんだフリーの方が楽かな。セフレはいるしね」  かさりと足の裏で葉を踏み締め湿地を進む。川の水の流れる音は次第に大きくなる。後藤へ視線を向けると、パシャリとシャッター音が鳴った。 「セフレ……そういう相手に本気になる事はないんですか?」 「あったよ。けど、その気のない相手に恋人になってくれなんて言ったって破局するだけだからね。本気の『好き』なんて最後まで言えなかったな」 「それは……」  切ない恋だ。  後藤の感情が移ったかのように利人は苦し気に眉を顰めた。そんな利人に後藤はくすりと微笑む。 「だから分かるよ。雀谷君がユウとの今の関係を守ろうとする気持ち」  那智の言い分も正しいとは思う。行動しなければ何も始まらない。このままではきっといつかこの恋は消える事になる。 「臆病なんでしょうか、俺は」 「そうかもしれないな。けど、誰しも恋をすると臆病になるものじゃない? 僕もそうだし、那智なんてその典型だ」 「那智が?」  後藤の意外な発言に利人は目を丸くする。  堂々としていて女関係の派手な那智は、自信家で臆病なんて言葉とは無縁のように思えた。消極的な利人を激励する位だ。  けれど後藤は利人の言葉に苦笑いを浮かべて頷く。 「あれは強がりだから。那智は口悪いけど、そういう暴言は大概八つ当たりだったりする」 「はあ……」  親しい後藤が言うのだからきっとそうなのかもしれない。けれど利人には中々信じ難い話だ。  後藤は大きな石の上に腰掛けカチカチとカメラを操作する。脇の茂みから何かが光っているのが見え、目を凝らすとそれが崖の下にある光の反射した川の水飛沫だと知る。  きらきら、きらきら。  飛沫が舞う。光の粒が躍る。 「人は誰しも守りたい世界がある。あんたが心を閉ざすのもまたひとつの方法だ。けどあんたの場合はさ、セフレが相手でもノンケが相手でもないんじゃないの」  カメラを膝の上に下ろしていた後藤は操作しながら再び構え直しレンズに利人を映す。凛とした横顔をひんやりとした風が通り赤褐色の髪が舞った。 「那智はユウが『普通』に女が好きな男だと思ってるんだろ。だからあんたが告白しないのはユウに軽蔑されるのを恐れているからだと思ってる。……けど、そうじゃないんだろ?」  利人の瞳は揺れない。ただ真っ直ぐ川の粒を見つめ、唇だけをそっと開いた。 「那智は間違ってない。俺は……ただ、怖いんです。失敗して取り返しがつかなくなるのも、この気持ちで迷惑を掛けるのも。……巻き込めない」  水が光の粒を弾きながら流れていくのが綺麗で。  瞳の奥がじわりと熱くなる。  どうして、好きになってしまったのだろう。  どうして、もっと早く好きになれなかったのだろう。  どうして、どうして。

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