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71 甘くて苦い
「僕、今でも時々思うんだ。霞に愛してると言っていたら、少しはましな未来もあったのだろうかと」
はっとして振り返ると後藤はカメラから顔を離して自嘲するように唇を弓なりに曲げる。
「僕は身体で霞を繋ぎ止める事が精一杯で、心を預けられた事なんて一度もない。言ってしまえば終わりだ。けど、それでも勇気を出して気持ちを伝えていたらもしかして、……なんて、今更だけど」
後藤なりに慰めているのか、励ましているのか。
(俺もいつか後悔するのか)
言わない後悔というものがどういうものなのか、利人には分からない。
分からないのに、分かってしまいそうな気がした。
夕との深い繋がりを、その可能性を捨てられずにいるのは他の誰でもない利人自身だ。
「友達のままでいたい?」
「……分からないです」
ぽつり、か細く零れ落ちる。
「分からなく、なっちゃった」
熱い。目の奥がじんわりと熱くなる。苦しくて、息が止まりそうになる。
夕。
惹かれてやまない。
どうしてだろう、会いたい。触れたい。
「いつも笑っていてほしい。傷つけたくない。俺が関わらない方が夕はきっと幸せだって思うのに、楓さんが彼女じゃないって分かってすごくほっとした。勝手だ」
ほとほとと感情が溢れて落ちる。そんなつもりはないけれど、もしかして酔っているのだろうか。心が無防備になる。弱くなる。
胸がきゅうと締めつけられて苦しい。
「雀谷君の心は、すごくきれいなんだね」
「俺は醜いです。卑しくて、汚らわしくて。夕にだけは、こんな俺を知られたくない。嫌われたくない」
この心は矛盾だらけだ。夕の為と言いながら自分の事ばかり。何を優先するかも定まっていない。
本当にぐちゃぐちゃで、何て醜い。
「奇麗だよ。あんたの拙い清らかさが底抜けに愛おしいよ。本当に……ぞくぞくする」
絶え間なく小さく響くシャッター音は利人の耳には届かない。意識は自身の内側へ、ただひとり立ち尽くす。
いっそ泣いて喚けば少しはすっきりしたのかもしれない。けれど利人の瞳は色を深めるだけでそっと瞼の下に隠れた。
「遅い」
コテージに戻ると、むすりと不機嫌そうにソファに肘を突き身体を預けた那智が出迎えた。その手には琥珀色を透かしたグラスが握られ、テーブルには褐色の瓶が置かれている。
「あ、僕のバーボン。困るなあ、勝手に飲まないでよ」
「いーじゃんちょっと位。それより撮影はもう終わり?」
「いや、こっちでも少し撮る。そこ退いて、あと服貸して。黒のトップス」
後藤はそう言うなりきびきびとテーブルを片付け始め、那智は「へーへー」と気怠そうに腰を浮かすも軽い足取りでこちらへ向かってくる。すれ違い様、その口元がにやりと笑った。残像のように残るむせるアルコールの匂い。
何だろう。
胸の辺りがざわざわする。
「後藤さん、俺そろそろ……」
「あと少しだから。ちょっとだけ付き合って」
セッティングの手を止めない後藤に利人は溜息をひとつ吐いて仕方なく了承した。まだ時間的には許容範囲内だ。
あと少しだけ、そうしたら帰ろう。きっとすぐ終わる。
(皆今頃どうしてるかな。急に予定つくって迷惑掛けたかな。夕は……まだ怒ってるかな)
窓の外はまだ明るいとはいえ日が落ち始め、空が灰色に染まっていく。
車に服を取りに向かったのだろう、一度コテージを出た那智は黒のTシャツを持って戻ってきた。スタジオと化したリビングは先程那智が座っていた白いソファだけが残され木目の壁の中ぽつりと佇んでいる。
「じゃあ雀谷君、上だけそれに着替えてくれる? 靴下も脱いで」
はい、と頷いて那智から服を受け取る。パーカーも中に着ていたTシャツも脱ぎ那智の服に袖を通す。Vネックで半袖のそれは思いの外丁度良く利人の身体を覆った。那智の方が背は高いが痩せているからだろうか。
あと五分待って、と言う後藤の指示に従いリビングに続くダイニングキッチンで待つ。すると、ことんと傍のテーブルの上にグラスが置かれた。
「利人君も飲もうよ。結構いけるよ、これ」
那智はからんとグラスを傾け蜜色の液体を口の中へ流し込む。顔色こそ変わっていないが結構飲んでいるのではないだろうか。
声が纏わりつくように甘ったるい。
「いや、俺はいい。これから撮るし」
「そんな事言わずにさあ。俺だけ飲んでも寂しいじゃん。それにちょっと飲む位の方がリラックス出来るよ? ほらほら」
強引にグラスを押し付けられ利人は困り果てた。飲み過ぎて情けなく泣くなんて醜態を晒したのはまだ記憶に新しい。
それでも一口だけなら、飲み過ぎなければ平気だろうとこの時は思っていた。しつこく酒を勧められ少しだけと言ってグラスに口をつけた利人は、初めて飲むバーボンのアルコールの強さに目を見張らせる。
思ったより多く口に含んでしまったそれは苦く喉を焼いたが、同時にバニラのような甘ったるい香りに包まれる。
「ね、結構甘いでしょ」
ご機嫌な那智に利人は頷いてそっとグラスを置く。
(何だこれ。やば……)
くらくらと目が回る。身体が熱い。どくんどくんと心臓の音が近く感じる。
まずい。
「よし、じゃ雀谷君こっち来て」
後藤の声にはっと顔を上げ、利人はこれ以上飲まなくて済む事に安堵しながら一歩足を踏み出した。
一瞬ぐらりと視界が回り足を止める。大丈夫、少しふらついただけだ。そう自分に言い聞かせてゆっくりと真っ直ぐ後藤の下へ向かった。素足にフローリングのひんやりとした冷たさが心地良い。
黒いTシャツにインディゴのジーンズといった格好の利人を後藤は顎を指で擦りながらじっと見下ろす。後藤は利人のジーンズの裾を少し捲ると良しと頷いて利人の肩を押した。
「じゃあソファに座って。そう、真ん中。普段座ってるような感じで楽にして、自由に動いてくれて良いから」
(自由に……と言ったって)
言われた通りソファに座る利人に向けて後藤がカメラを構える。さっきは多少目線の指示はあっても殆ど歩いているだけだったから気が楽だったが、今度は撮影らしい撮影だ。モデルなんてした事のない利人には些か荷が重い。
(撮影してる時の夕はどんな感じだったっけ。次々ポーズ変えて動いてたよな。……楽に、かあ)
カメラを強く意識するのを止めて体勢を変えてみる。姿勢の良い体勢から少し身体を崩し、足をずらして身体を預けるように背凭れに頭を乗せる。
「良いね。色っぽいよ」
奇しくも那智の言った通りアルコールが入る事で緊張感が和らいだらしい。いつもだったら恥ずかしくてがちがちに緊張していたかもしれないが、頭がぼんやりしているせいか自然と柔軟に身体が動く。
(すごいな、カメラマンって。さっきもそうだったけどぽんぽん褒めてくる。俺が色っぽいなんて……夕は色っぽいんだよな。恰好良くも可愛くもなれる)
頭の中ではずっと夕の姿を追っていた。夕はどんなポーズをしていたかな。夕はどう動くのかな。
ずっと見つめていた夕のモデルの姿を思い描くそれは夢を見ている時の感覚に似ていた。
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